ESSAYS IN IDLENESS

 

 

For a Year

早いもので、北海道、札幌に来てから1年が経とうとしている。2021年の12/15に引っ越しをしたから、ちょうど一年。こちらに来てから、時間はたくさんあったけれどブログは一度も更新をしていなかった。この1年は多くの人に別れを告げた。些細な新しい出会いはあれど、本当に一人で過ごす時間がほとんどだった。これほど1年の中を一人で過ごしたことはこれまでの人生で一度もなく、それが新鮮でもあり、自分自身に変化をもたらしたように思う。週のうち5日はほとんど家から出ずに仕事をする。近くのコンビニに行ってコーラや牛乳、ちょっとしたお菓子、味噌汁の具を買い、部屋に戻って米を炊く。毎日昼夜を自炊し、音楽を聞きながら仕事をする。仕事が終わると映画を見たり、ゲームをしたり、本を読んだり、いろいろな釣り場について調べたりする。土日はどこかに釣りにいき、きれいな川や湖、山並みを見つめる。季節の移ろいを感じながら、魚の居場所を探して北海道中を駆け巡る。疲れた日には温泉や近くのサウナに行って、ゆっくりお湯に浸かりながら頭の中を空っぽにする。その間も、人と話すことはなく、淡々と時間が過ぎ、気がつけば一年が経過していた。誰かに会って話をすることは本当に少なく、数ヶ月人と口を聞いていないということもざらにある。そんな中で自分が精神になんの異常もきたしていないというのは、喜ばしくもあり、虚しくもある。総じて、この生活が良いのか?と言われたら人によるとしか言えない。僕は一人の時間にとても慣れており、どうやら普通の人よりも自分自身の心を飼いならすことができてる、ないしは、自分の心が既に死んでいるかのどちらかなのかもしれない。誰かと比べなければ、自分がなにか悩みにさいなまれることはない。SNSで流れてくる誰かの大物の釣果情報だけが僕の心を狂わせるが、それ以外のことで取り立ててなんの悩みもない、平穏な日常だったと振り返って思う。

車を手にして、いろいろなところへ行った。小樽、余市、夕張、富良野、旭川、帯広、釧路、幌美内、弟子屈、稚内。北海道は広大で行けていないところもたくさんある。今年は1万キロ以上を走ったけれど、それでもまだまだ北海道を知るには足りていないようだ。たくさんいろいろな場所を巡ってはいるが釣果はまだまだついてこない。まれに良い釣果が出るときはあり、川の中から引きずり出した50cmを超えるニジマスやアメマスを見たときには、都内に住んでいた頃には味わえなかった感動を覚えた。たくさんの魚を逃し、ルアーをなくし、竿を折り、リールを壊し、転んで怪我をし、車中泊で体中が痛くなる。そんな思いをしながら、やっと掴んだ魚の価値は何物にも代えがたい自分だけの誇りになる。それが自分の人生に何があるのだろう?とふと思うことはあるし、僕はなんのためにこんなものに人生を振り回されているのだろう、と思う。おとなしく東京に残っていれば、友達にも会えるし、美術館や映画館にも行けるし、様々な価値観にふれることもできる。美味しいコーヒー屋が近くにあり、いろんな店にも歩いていける。便利さを手放し、人とのつながりを手放し、これまで自分が培ってきたものを失う感覚を覚えつつも、自然に向き合うことで新しい何かが感じられるようになると良いのだが、それはいつになるのだろう?

支笏湖の朝焼け、夕張のエメラルドグリーンの川の流れ、屈斜路湖の星空と美しいヒメマス、帯広の十勝川の力強い流れ、釧路湿原の雄大な夕焼け、朱鞠内湖の鏡のような水面。自然の音以外と息を呑むような絶景以外に何もない、自分だけが自然の中に取り残されているのに、不思議と不安でないようなあの感覚が、この一年の自分にとっての期待であり移動を促す原動力だった。他の誰のためでもない、完全な純度の自分のためだけの時間と空間を求めて、いろいろな場所へと移動を繰り返した。それはアメリカでのロードトリップの経験に似ていたように思う。願わくば、釣りだけに集中せず、もっと景色や時の流れに敏感だったあのときの感覚を取り戻せたら、もっと素敵で大切な時間が過ごせるかもしれない。

この一年で読み返していたものがある。それは友人の結婚式で貰った手紙だ。ちなみに封筒に書いてある宛名は間違えている。この手紙だけはいつでも取り出せる位置に置いてあり、折に触れて読み返していた。その中で、自分の長所は意思の強さ、センス、創造力、愛するものは裏切らない、ということが書いてあった。友人からの手紙は、もしかしたらこの一年で一番心を支えてくれたものかもしれない。センスと創造力、それは自分のユーモアの源泉のようなもので、それを失いかけていた、ないしはその形が変わろうとしているのかもしれないとこの文章を書きながら改めて手紙を読み返していて感じた。

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