Marunuma Lake - defeated -
休日になると釣りに出かける日々が続いている。以前までの自分とはまるで違う生活が当たり前になっている。ようやく三十路も過ぎてから打ちこめるものを見つけることができて幸せだ。釣りの魅力は内省的でないところだと思う。映画や小説のような文化的な趣味は、楽しい触れたものが自分の中に蓄積されていくという大きな魅力があるが、その一方で否応なしに内省的になる。それはとても大切なことだが、釣りにはそれがない。純粋に自分の外側にあるものに対峙しひたむきに自分を試していく。試していくというと仰々しいが、おおよそパチンコなどのギャンブルと対して変わらない。台にむかって熱中しているのがパチンコだとしたら、それが海や湖、川に変わっているだけのこと。なんのルアーがいいだの竿がいいだの、そういう小細工や工夫をしながら自然に向き合っていくのが楽しい。釣りは内省的な趣味に比べて無意味かもしれない。釣れない時間を一日過ごすなら、その間に映画を何本見れただろうか?と思うこともある。しかし、釣れなかった悔しさや釣れた嬉しさ、景色の綺麗さと気持ちの良さでそういう思いはすべて帳消しになっているような気がする。以前写真家の人にそのことを相談したら「きっと、氏家さんの非認知能力が上がっていると思います」と言っていた。自分で認知できる能力と、そうでない能力が人間にはあって、認知できないほうが上がっているんじゃないか、、とのこと。きっとそうであってほしい。
この日は本当は渓流に行く想定だったが天気が生憎の雨ということで湖での釣りに切り替えた。渓流で雨というのは命の危険が伴うので素人は特に危ない。よく勝手知ったる川でなければ増水時の遡行ルートや帰り道がわからないからだ。渓流釣りでは45度くらいの土の傾斜を上り下りして道路に戻ることも多いので(しかも片手はふさがっている)、そこがぬかるんだりすると大怪我のリスクもある。湖の釣りは雨の冷たさだけ凌げばなんとかなる。そう思ってきたのが湯ノ湖だった。以前隣で爆釣してた人たちを尻目に悔しい思いをした場所だ。昼過ぎについて夕方までさっと釣りをして翌日に備える予定だった。この日はポイントに入って2投目で一匹釣れたが、それ以降はあたりらしいものは特になく終わった。ものすごいスピードで移り変わる山の景色を見ながら、魚がいるかどうかもわからない水面に向かってルアーをキャストし続けた。釣ったのは30cmくらいのニジマス。柔らかいロッドだったので竿がきれいにしなって魚を寄せてくる。しっかりとフッキングを決めたのでバレることもなく、新しく買った安いランディングネットでそっと魚をキャッチした。
次の日は湯ノ湖の近くにある丸沼という大型トラウトがいる湖へ。沼とついているが実際のところはダム湖で、その水はすべて湧水ということでものすごく水がきれいな湖だった。かかればデカイがなかなか渋いらしいということを聞いていたので気合を入れて臨んだ。立木のエリアや大きくくぼんだワンド、様々な場所を転々としながらルアーを放っては巻き、放っては巻きを繰り返したがアタリの一つもなかった。水はだいぶ冷たく、風も冷たかった。登山用のフリースと雨具を着てちょうどいいくらいだった。諦めて帰ろうとしたところで、隣の車の人達に話しかけたらその人たちは二人で30匹くらいはかけたとのこと、、、、ここで僕の心はだいぶ折れてしまった。これまで自分たちが釣れなかったらたいていは釣れない状況なんだろうと思い込み、実際に釣れていないことも多かったが言い訳ができないレベルで差がついていた。その人達曰く、風が岸に向かって吹いているときは沖側から岸に向かって引いてくるほうが釣れるとのこと。確かにその人達はボートで岸に向かってキャストをしていたように思う。そんな発想は全然なかったし、同じようなポイント投げてるのに何が違うんだろう?とおもった。もしかしたらその人達だけがたまたま爆釣していただけかもしれないが、悔しかった。