Kelly Reichardt
久々に映画を見ることだけで週末を過ごした。ケリーライカートの映画を見ようと土日に4回も映画館に通い、ひたすら映画を自分に対して染み込ませるような鑑賞をした。疲れはしたが、自分にとって何が大切なのかを振り返るとても良い機会になったと思う。
見たのは『オールドジョイ』『ミークスカットオフ』『ウェンディ&ルーシー』『リバーオブグラス』の4本。すべて未だ見たことがなかった作品ばかりだったので、とても楽しみだった。この映画のレビューを見ていて「ジム・ジャームッシュっぽい感じ」だとか「忘れ去られた(普通の/貧しい/孤独な/理解されない)人々の」という言葉をよく聞く。少なくとも、映画館前で屯していたいかにも文化系って感じの若い人たちはそんなことを言っていたのをこの耳で聞いた。音楽がヨ・ラ・テンゴだったり、ボニープリンスビリーだったりと、インディーミュージックが好きな人も馴染みやすい作品であろうことは間違いがないのだが、僕はこの映画の本質は決してその「インディーっぽさ」にはないものだと思う。アメリカの、それこそポートランドで見た『Cretain Woman』しかり、そこに描かれているものの正体は一体何だったのか、なぜ自分がこの映画監督のことをこんなにも好きなのか、その理由を考えていきたいと思う。
ジム・ジャームッシュももちろん映画にはよるが、ケリーライカートとの大きな違いは描こうとしているものの対象ではないかと思う。ジム・ジャームッシュの映画は「らしさ」を徹底して描こうとしたもの(だと認識している、もちろん作品によって異なるだろうが)。そのらしさの正体は彼の描きたいものなのではないだろうか。
対してケリーライカートはどうかというと「そのものを描く」ことを徹底しているのだろうと思う。そしてそれが僕がケリーライカートを好きな理由だ。比較対象としてジム・ジャームッシュは間違っていると思うが、ジム・ジャームッシュの映画は見たあとに「憧れ」を抱く。対してケリーライカートを見たあとに残るのはなんとも言えない共感だった。なぜ、その違いが出るのかといえば映画への向き合い方が違うからだと思う。僕の勝手な想像ではあるが、ケリーライカートの映画は彼女自身の圧倒的な観察力と共感力、世界を捉える解像度と視点によって被写体/ストーリーがそこから立ち上がるような作られ方をしていると感じる。第三者目線(カメラの目線)で俯瞰してすべてをコントロールするように作るのではなく、当事者の目線へと監督自身が同化し、ナラティブ化し物語が構築されているような気がする。公開された4本を立て続けに見て、その視点の一貫性があるのではないかと感じた。その一貫性があるということは、その描き方が「技法」や「スキル」といったノウハウ的なものに集約されるのではなく、「彼女そのものの人生」であることの証明なのではないだろうか?
僕が違和感を描いた数々のレビューの「忘れ去られた(普通の/貧しい/孤独な/理解されない)人々の」という言葉に違和感を覚えたのは、彼女自身はそのような認識で敢えて主人公やストーリーを選んでいないような気がしたからだ。そのような題材を「敢えて」選んでいるとしたらきっと物語を「作ろう/描こう」としてしまうだろう。そうしたならば、なんらかの脚色や第三者的な視点が介入してきてどこか差別的な表現が含まれてしまうような気がしている。描こうとせず、わかりやすくカテゴライズしたりせず、何かしらのラベルを与えるようなこともせず、自分が感じたり見たものを吐き出すかのように物語を紡いでいるような気がした。だから、見ている側があの映画で見る人々を「忘れ去られた(普通の/貧しい/孤独な/理解されない)人々の」と認識したならば、きっとそれは自分自身の差別意識の裏返しになってしまうのだろうと思う。映画だから描こうとしたり作り上げようとしないことは前提として不可能である、がしかしそれをできるだけせずに純度を高めきった先にあるものがケリーライカートの映画ではないだろうか。そして世界を冷静に、真摯に見るその視点こそが現代に必要とされるものなのではないだろうかと強く思った。
たまには映画を真剣に見るのも、いい刺激になって良い。昔過ごしたポートランドの空気をほんの少しだけでも感じることができて、とても嬉しかった。