ESSAYS IN IDLENESS

 

 

Trouts

アメリカのどっかの道

アメリカのどっかの道

先日、数回目の御岳渓谷にて初めてニジマスを釣り上げることができた。昨年の釣行で山奥の支流でアマゴの稚魚を釣って以来、初めて管理釣り場でない場所で魚を釣り上げることができた。もちろん放流魚ではあるものの、自分の力で自然の流れのなかから引き出した一匹の価値は大きい。せっかくなので食べようと思って川岸に生簀を作っていたのだが、そこから飛んで逃げていってしまって食べることは叶わなかった。ただ、なんとなくだけれど食べれなかったとしても、悲しい気持ちにはならない。また元気に川を泳いで過ごしてほしい(誰かに釣られてしまうのだろうけれど)。

そして5月の最終週には小菅川CR区間へ。ここは一度来てみたかった場所だったが、びっくりするくらい魚影が濃かった。もはや管理釣り場と言っても差し支えない何百匹もいる魚に向かってルアーを投げるも、チェイスはするが食わない時間帯が続く。何十回もルアーを変えながらアプローチを変えてキャストを繰り返す。結果的にはニジマス4匹、よくわからない川魚が2匹ほど釣れた。僕の良くないところだと思うが、こんなに景観が良いところなのに目の前の魚に夢中になってしまって休むということをほぼしない。というより僕の人生自体がそんな感じだ。せっかく椅子を持ってきても座らないし、キャンプ道具を持っていっても使わない。バランスのとり方というのがかなり下手だ。

アメリカにいることも目の前の景色を追いかけていたら、いつの間にか何百マイルも進んでいて宿を取るのは最後だった。疲れ切るまで走りきってあとは寝て、また次の日も同じように何百マイルも走る。僕が誰かと一緒に何かをできないと思い込んでしまうのは、こうした生き方に巻き込んでしまうのが申し訳ないという気持ちがあるからだ。一人は気楽だ。僕は自分の食べ物でさえ、毎日同じような冷凍食品でも、タコベルでも、ハンバーガーでも何も苦ではない。効率的に、自分が楽しいと思う時間をできる限り引き伸ばして、伸ばしきってからその次のことを考える。こういうことをし続けてもうだいぶ歳を重ねてしまってきている。

小菅川からの帰り、昔は何も起き得ないことに対して妙に期待をしてしまって数々の恥話を生み出してきてしまったことを振り返りながらみんなで笑いあった。何も自分から起こしたりしないのに、深夜にクラブに行ってみたり。そこでウォールフラワーと化して一服して帰ってくるなんてことはザラだった。むやみに人を傷つけて価値観の正当性を示したり、その頃はイキるという言葉がなかったが実態としてはみんなイキってたということでもたくさん笑った。そういう話を友達をしていると、自分の感覚が昔にもどったような気がする。高速道路の街灯や沈んでいく夕日を見ながらきれいだなと思ったり、音楽をかけていなくても頭の中に曲が流れてくる。夏は始まっていないけれどSummer Endsが聞きたくなるのは、自分が楽しいと感じている証拠だろう。