ESSAYS IN IDLENESS

 

 

Rivers and Mountains

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3月の上旬、今シーズン初の渓流釣りが始まった。初めて渓流に訪れたときと同じ奥多摩の御岳渓谷。しかし、放流日だったが釣果なし。きれいな御嶽渓谷の流れと、いつも安定の渓竜のラーメン、隣の人達が釣り上げた大きなニジマスの塩焼きに羨望の視線を送るだけで一日が終わった。御嶽駅すぐの渓流は釣り人で賑わい、エサ釣りのおじいさんたちと一緒に釣りをした。たまに歩くのを助けたり、ポイントを譲り合ったりした。

4月の初め、また川へ行った。栃木県と福島県の境にある、きれいなキャンプ場を足場に、その近くにある川の上流と下流をたどった。

初日は上流へ。誰もいないきれいな川を少しだけ遡行しながら、ルアーを投げ続けた。結果、数投で買ったばかりのルアーをロスト。もちろん釣果はなし。一度も魚影を見ることはなく拠点へ帰ることに。少し冷たい川に足を浸しながら、山間に吹く風を感じていると頭の靄がこのときだけは晴れてスッキリとしているように感じる。釣れなくても、この景色の美しさがあるから渓流釣りを嫌いにならずに済んでいる。

2日目はキャンプ場の下側に流れる川へと向かった。結果から言えばこの場所も一切の魚影がなく、透き通った水の流れだけがあった。仕方ないのでキャンプ場に併設された釣り堀で釣りをして帰ったが、10投もしないうちにイワナとヤマメがヒットした。本物の川の釣りの50000倍くらい簡単だった。空き缶のプルタブを投げ入れても釣れるだろう。

釣りをしていると自分がいかに普段の生活で消耗しているのかを実感する。釣りをしている間や旅をしている間は、疲れこそすれど自分の中の何かが失われることはない。ただ、自分の生活においては時間と体力、そして自分の中の大切な何かを切り売りしながら日々をしのぐ感覚が拭えない。なぜそのような感覚を覚えながら日々を過ごさなければいけないのだろう?これは今年33歳になった自分に課せられた解決しなければいけないテーマのような気がしている。