ESSAYS IN IDLENESS

 

 

Be Patient Part3

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コロナ、マジでキツイ。前に日記を書いたのが4月だったらしいけれど今は7月。季節が一つ巡って夏になっている。でも、未だに家からほぼ出ない生活が続いている。仕事はこんなときでも死ぬほど忙しくて、毎日遅くまで働いている。そんなときに、としまえん閉鎖、政治関連、都知事選などクソにクソを上乗せしたようなことばかり世間では起きていて、心がゲンナリしすぎて生きる気力もわかない。
そんな折、ふと最近急に釣りをしたいと思うようになった。動画で渓流釣りや海釣りの動画を見ていると自然の中に身を委ねたいと思うようになった。それと同時に、むかし祖父や父、兄とよくでかけた地元の海のことを思い出す。保育園の頃くらいから祖父に連れられて女川の海にいき、短い竿から釣り糸を垂らしていた。晴れた日の海で見るオレンジ色の夕焼けや、波間に漂うかもめの姿は今でも覚えている。小学校に入ると祖父に感化された父親が釣りにハマってしまい、それからはいつも家族総出で堤防に釣りに出かけた。おにぎりやお菓子を持って、静かでちょっと汚れた海を見ながら魚がかかるのをのんびりと待った。多いときには月に2-3回は行っていたはずで、基本的にいつも釣れるのは15cmくらいの小魚ばかり。たまに大きなアイナメやカレイがかかると、家で待っている祖母がお刺身にしてくれた。母が以前三枚おろしに挑戦したところ身がボロボロになってしまって食べる部分が減りすぎて家族から非難が殺到し、それ以降母が魚を捌くことはなくなった。その頃堤防釣りにでは飽きたらず船釣りに出かけるようになった父が大きな魚を持ち帰ってくるようになり、自分で魚が捌けるようになっていたので特に問題は起きなかった。中学校に入ると自転車で行ける近くの川や沼に友達とバスフィッシングに出かけて、高いルアーを恐る恐る投げては無くし、イライラしたことを覚えている。
特に、僕が今惹かれているのは自分がしたことがない渓流釣りで、その中でもネイティブトラウトを巡る源流に行って釣りをしてみたい。絵に書いた秘境のような場所で、釣り竿とちょっとしたアウトドア用品だけを持って釣った魚を焚き火で食べたりしてみたい。これはきっと人生の中でも指折りの素晴らしい体験になるだろうということはやる前からわかっている。このことを考えると、アメリカで旅をしているときに訪れた、ミシシッピ川源流のイタスカ湖のほとりで釣りをしていた家族のことをなぜか思い出してしまう。美しいミネソタ州の自然の色合いが、僕が動画でみていた渓流の景色(主に北海道や東北)と似ているからだろう。今年は無理かもしれないが、来年はトラウトの聖地と呼ばれる北海道に長めの釣り旅行に行ってみたい。まずは手始めに奥多摩や中津川などの東京近郊の渓流に行って自分の鈍った釣りの腕をなんとかしたい。もし、これが本当に楽しかったとしたら僕はもう東京での暮らしはやめて、自然に近いところで暮らそうと思う。

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