ESSAYS IN IDLENESS

 

 

American Boyfriend - Trip to Okinawa - Day 0

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今年のGWは天皇退位のご意向により10連休。リトアニアへメカス追悼の旅に出るか、シベリア鉄道でロシア横断の旅に出るか、香港へ行きウォン・カーウァイの世界に浸るか、、、様々な選択肢があったが日頃の疲れがたまりすぎてどこに行くにも億劫で、決定を先送りにし続けてしまい何も決めることができなかった。なぜ旅をする気が起きないのかといえば、それは明白で本や映画を見る時間も気力もないせいだ。どこかに行きたいと思う気持ちは、誰かの目や言葉を介して表現されるその土地や文化に触れたいと思う気持ちがあるからだ(少なくとも僕は)。旅をするにあたり読んだ森山大道の『犬の記憶』でも、彼が沖縄に行ったのは東松照明のような写真を撮るためだったし、ブルース・チャトウィンが『パタゴニア』に行ったのは南米に逃れた「明日に向って撃て!」でお馴染みのサンダンス・キッドやブッチ・キャシディの足跡を追うことが始まりだった。池澤夏樹が『パタゴニア』のあとがきに寄せているが、チャトウィンはゆく宛もない旅を、無目的に放浪をしているのではなく、自身の知的好奇心に従って旅をしている。それを彼はこう表現している。

まず土地があるのではなく、まず自分がいる。行った先の風土を観察する前に、その土地が自分の中に喚起する知的好奇心の展開を重視する。その地域をあちらこちらに動く記録の中に、それと関わっているが直接その時その場で起こったことではない話題が大量に象嵌されている。彼自身の旅を縦糸とし、かつてのその他の人々の事績を横糸として編んだ布が『パタゴニア』である

まさにそれは日本で言えば、駒澤敏器さんや長田弘さんのエッセイであり、自分が理想とする旅のやり方だった。そして、僕は沖縄に行くことを決めた。いちばん身近なアメリカだという勝手な決めつけと、決定打になったのは思い立ったのはミヤギフトシさんの小説が出たことだとだった。沖縄に行くにあたり、『ディスタント』を読み、「American Boyfiriend」を読み直し、森山大道の『沖縄』を立ち読みし、沖縄のイメージを固めた。写真に映る様々なアメリカ的な風景(米軍のフェンスや、色あせたスナックの看板、道路脇に生えたヤシの木、ドライブインで買うハンバーガー!)を目に焼き付け、そんな風景があれば大きな旅の目的はなくとも、ただダラダラと過ごしていれば良いと考えていた。

身軽に旅をするために、少し装備を新調しフィルムを買い足した(結局あまり使わなかったが)。旅がうまくなりたい、自分の理想とする旅に少しでも近づきたいと思うことができて、自分の生活を少しずつではあるが取り戻しつつあることを感じた。

hiroshi ujiietravel