ESSAYS IN IDLENESS

 

 

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これが僕が祖父を撮影した最後の写真ということになる

これが僕が祖父を撮影した最後の写真ということになる

『なぜ、植物図鑑か』をかなり久しぶりに、というか大学生ぶりに読み直している。あの頃はわからなかったことや理解することを諦めたことが、今読むとありありと分かるようになってくることに気がつく。中平卓馬という写真家について知ったのは大学生のときだった。大学の時に写真論や、イメージ論を受講するとほぼ確実にその名前を聞くようになる。写真サークルの友人に「好きな写真家は誰か」と聞けば、まず上がってくるのは森山大道、荒木経惟、そして中平卓馬ではないだろうか?だから、作風や作家性は抜きにして、比較的アクセスが容易な作家であるように思う。文学部の図書館の写真コーナーの中にあった彼らの本は当時片っ端から借りて読んだが、耳に心地のよい部分やインパクトの残った部分のみを印象で覚えている限りで、少しでも学びに繋がったかは疑問だった。それはもちろん自分の知識レベルの問題なのだけれど。当時は写真や文章のインパクトの強さから、森山大道に非常に心酔していた。プロヴォークという活動についても彼の作品を通して知った。その中で中平卓馬というのは「もともと編集者で、酒に酔って事故を起こし、記憶と言語が曖昧になった作家である」という身も蓋もない解釈をしており、その前後で大きく作風が異なるのが彼の作風だったように認識していた。

ある日、銀座のギャラリーで、まだ中平卓馬が存命だった時に写真展を見に行ったことを覚えている。僕が彼を知ったときにはもうすでに、その作風から『なぜ、植物図鑑か』で語られているような、徹底した「ものの視線」を作風としていた。技術や私的さ、表現性からかけ離れたところに彼の写真はあった。ヤギ、地蔵、寝る人、縦位置で取られたそれらの写真はこれまでの彼に期待するものから大きく乖離をしていた。一言で言えば、とにかくつまらないとおもったことを覚えている。あのときその空間にいた人たちも神妙そうな顔つきで写真を眺めていたが、そのように思っていたのではないだろうか、と当時は考えていた。「アレ・ブレ・ボケ」という写真ではタブーとされてきた数々を表現として取り入れた彼の初期の写真は、とても深い印象を僕に与えた。そのような世界/視線/写真に対するアンチテーゼが一枚の写真として成立し、人の心を動かすことができるのだと知ることができた。漆黒に染まるアスファルトやタイヤ、反射する水たまり。ぶれた店のシャッター。自分がこれまで見てきた世界とはまるで違かったし、ブレッソンやアジェ、アンセル・アダムスのような精度の高い白黒写真とは対極に位置するものだった。

『なぜ、植物図鑑か』の冒頭で、彼は当時の自分に当てられた厳しい批評(批判とも期待とも呼べる)に対してまず反論を行っている。ざっくりと、個人的に解釈すると、「写真家が自分の解釈で世界を切り取るということは現実を歪ませてしまう。それは身勝手なことで表現たり得ず、それがかつて自分が表現していた/周囲が期待するポエジーだとしたら、その場所に自分が戻ることはもう二度とないだろう」ということだ。

彼が言葉を尽くして、自分がかつてしていたような表現に戻らないのはなぜなのか、写真とはどうあるべきものなのか、ということを語っているのが『なぜ、植物図鑑か』だ。Youtubeに上がる彼の姿は、赤い帽子に赤いジャケットを着た、写真好きなひょうきんな爺さんといった感じだ。タバコ片手にフガフガとしゃべる姿は滑稽さすら感じられるほどだった。おおよそ思想というものからかけ離れた容姿をしているが、今あらためて、『なぜ、植物図鑑か』を読むと彼の言葉の豊かさ、興味範囲の広さ、考えの奥行きについて感嘆させられる。人は語ることから逃れることは容易だ。むしろ、表現の領域については語ることは無粋であるといったきらいすらある。作ったもので判断してくれ、見て自分で考えてくれということは当たり前に感じられるが、それはある意味思考停止であり、逃げなのではないだろうか。自分を徹底的に客観視し、自分で自分の逃げ道をなくし、一人で出口があるのかどうかもわからない迷路の中をさまよい続けた彼の言葉は重く深く、深淵に到達しているように思えてならない。さらに言えば、語ることが重要なのではなく、どのように語るか、ということも非常に重要である。それが中平卓馬と、荒木経惟の大きな差ではないだろうか。

全く関係はないのだけれど、カメラに入っていた写真を現像したら2016年、僕がまだアメリカに行く前に実家にいた頃に1枚だけ撮った祖父の写真が出てきた。祖母の形見のカメラで撮ったから日付が入っていたので、いつ撮影したかを判別することができた。白黒で、荒れてボケているが、不思議な優しさのある写真だった。たまたま彼の本を読んでいた時期と、現像が上がってきたタイミングが重なったものだから、まったく性質の違うこれらの写真に不思議なつながりを感じる。この写真は紛れもなくポエジーだけれど、このポエジーは「良い」ポエジーだと思う。

hiroshi ujiiephoto, days