ESSAYS IN IDLENESS

 

 

GOING STEADY

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僕には2歳上の兄がいるが、先日兄は結婚式を挙げた。自分の家族の結婚式を祝える機会は兄弟の数しかないと考えると、自分にとっては人生に一度(で、あってほしい)しかないとふと前日に気がついた。同じ親から生まれ、同じ小学校、中学校、高校に通い、同じ部活に在籍していた。そしてなんと大学まで同じところに進み(兄のほうがいろいろ合って一年後に入学したが)、今は同じように東京にて、別々の場所でそれぞれの暮らしをしている。大学から卒業したあとの2年間は同じ高井戸の家に住み、ほぼ毎日一緒に飯を食べた。幼いときはよく喧嘩をしたりしたものだったけれど、二十歳を越えると良き理解者としての兄の姿が見えてきたことを感じた。最初は一緒に住むことに抵抗があったことは否定しない。どちらかというと兄は自分勝手で自堕落なイメージがあったからだ。実家にいたときは大きな音で音楽を鳴らしたり、家に勝手にドラムを設置したり、自室でタバコを吸っていたりとやりたい放題だったし、それが度々家族の心配の種でもあったからだった。

なぜ兄がここまで破天荒なのかは正直良くわからないけれど、おそらくそれは2000年代初頭に隆盛を極めていたGOING STEADYに代表されるようなパンクバンドの影響が一部にあるのは間違いない。※それくらい、高校生の頃の僕たち兄弟にとっては峯田和伸や横山健という(地元のTSUTAYAにギリギリ置いてあるくらい)存在が大きなものだった。今でもよく思い出すけれど、僕が人生に一番最初に行ったライブは銀杏ボーイズのZepp仙台でのライブで、それは兄と一緒に行った。周りのどうしようもない荒くれたちと一緒に大声を出しながら盛り上がっていたら、後ろからニヤニヤして近づいてきた兄が僕を持ち上げて人の山の上へと放り投げた。そして僕はその人々の突き上げる拳に下から殴られたり、押し出されたりしながら、人が作り出す波の間を縫って後ろから前へと流されていった。僕の人生においてライブでダイブを経験したのは後にも先にもこのときだけだろう。

兄は東京でバンドをやりたいと言って適当な大学に入学し、高円寺で一人暮らしを始めた。弟の自分が言うのもなんだが、兄は非常に頭が良かったし、だいたいどんなことでもすぐに要領を掴んでうまくできてしまうタイプではある。すんなりいい大学に入って行くのだろうなと思っていたけれど、自分のやりたいことを見つけて早く家を出てしまった。親が家庭教師を付けて、予備校にもしっかり通わせたのにもかかわらず。僕が高校生だったころ、2年間だけ兄がいない実家で暮らしていたけれど、お盆や正月にバイクで帰ってくる兄の姿を見ては「相変わらず自由にやっているな」という気持ちだった。祖父や両親はそんな兄が帰ってくる度に喜び半分、心配半分だっただろう。僕の大学進学が決まった頃、兄が当時暮らしていた高円寺の家に泊めてもらったことがあった。日の当たらない地下室のような狭い部屋の中にはよくわからない音楽関係のステッカーがたくさん貼ってあり「音楽レーベルを始めた」ということを聞かされた。たしかレーベル名は「ニャンニャンレコード」とかそんな感じだったと思う。(もちろん、峯田和伸の「夕焼けニャンニャン」から来ている)ギターを持って友達と一緒に路上でライブをしたり、勝手に知らない学祭のステージに乱入したり、一風変わった友達と一緒に破天荒な振る舞いをずっと2年間以上も続けていたようだった。兄がそうした武勇伝を面白おかしく語っているのを聞いて、東京はやはり宮城県とは全然違うのだろうなと少し恐怖を感じたこと、そして自分とはだいぶ違う考え方を持っていたと実感したこと覚えている。

僕が大学への入学が決まると、なぜか兄は再び受験勉強を始めた。あれほど熱中していた音楽にはある程度見切りをつけてしまったらしい。聞けば音楽の世界も結局のところは学閥だよね、という話だったけれどそれが本心だったかどうかはわからない。その頃の兄の家にいったことがあるが、受験勉強と言いながら信長の野望をひたすらにやっていたし、それが日本史の得点アップにかなりの効果を及ぼしたと本人は言うが、相変わらず適当だなと思った。僕が見ていないところで死ぬほど勉強をしていたのだろうけれど、勉強を初めて一年でしっかり目的の大学へと入学ができたのは本当にすごいと思う。当時、ストレスが原因で顔面麻痺などにも悩まされていたから、何度か心配で見舞いに行ったこともあった。

僕の兄が僕と同じ大学にいるということは、大学に通っている間には誰にも言わなかったし、兄も弟がいるとは言わなかった。それは僕たち兄弟にとっては本当に暗黙の了解の様になっていた。だからたまに「ウジイエ君に見た目も名前もそっくりな人がうちのサークルに来たんだけど?!」という話を振られたりしたけれど、僕は知らないふりをしていた。兄も同じことを言われたりしたらしいが同じようにしらばっくれていたらしい。たまに年に数回、教育学部のキャンパスに行く機会があり、そこでたまたま兄とすれ違うことがあったけれど、そのときにはお互いニヤニヤしながら目配せをしてすれ違った。

僕と一緒に暮らし始めたのは2011年の1月からだった。どこか兄のことをまだ信用しきれていなかった僕は少し警戒しながら住み始めたが、昔の姿はどこへやら、かなりまともな社会性を身に着けていた。掃除洗濯ゴミ捨てはまめにやるし、排水口もきちんと掃除するし、僕がやり忘れたことはだいたいなんでもやってくれた。バイクに二人乗りをして遠くまでラーメンを食べに行ったり、銭湯にいったりもした。バイトで培った料理を披露しあったり、あまり外食をすることもなくだいたい毎晩ご飯を一緒に食べた。そのまま深夜過ぎまでゲームを二人でしていることもあった。自分の作った料理に不満を持たれることも文句を言われたことも一度たりともなかった。そのおかげで、一緒に暮らしてからは一度も喧嘩をしたことがないし、嫌な思いをしたことすらもなかった。2011年の3月に震災があったときは二人でテレビを見ながら、黄土色の凄まじい津波が実家の近くを飲み込んでいくのを見ていた。兄は地震が起きてから早々に、近くのスーパーに行って必要な物資を買い集めていた。そして原子力発電所が放射性物質を撒き散らし日本を汚染するのでは、というニュースを見てから、いつでも首都圏を脱出できるようにヘルメットを2個と緊急用の装備を玄関に並べていた。3月11日以降の僕たちの暮らしはそれはもう酷いもので、刻一刻と変わる事態に対応をするために、部屋から一歩も出ず、二人で寝袋をリビングに引いてずっとテレビを眺めていた。およそ1週間くらいではないだろうか。これだけ誰かと同じ時間を過ごしたことは実家を出てからはなかったけれど、兄の姿は心強く頼もしくもあった。それはおそらく隣で寝袋にくるまって寝ている人間が、自分との血の繋がりがある兄であったからだろうとその時に思った。幼少期の兄に対して感じていた恐怖感や劣等感というのはこのときにはすっかりなくなり、敬意に変わっていた。信頼できる兄、理解者としての兄の姿がそこにはあった。もともとふざけた人間ではあるのだが、言っていることがなぜか正しく聞こえる瞬間があった。兄が言っていることは大体の場合において正しいし、だいたいどんなことでも知っていた。ふと、兄が僕に言っていたことを思い出す。「うち親は子供のことを理解しないだろうから、早く家から出たかった」と。僕は自分の親が自分にとっては普通だと思っていたけれど、兄は親が自分の足枷になるであろうことを早くから気がついていた。だから、有無を言わせず親から離れられるように東京に出ていった。兄がそうした行動を取ってきてくれていなかったら、僕の人生は今とは大きく違うものにきっとなっていただろう。今では僕も自立した一人の人間だが、いつも追いかけていたのは自然に兄の背中で、兄の作った道を歩いてきていたのだろうと思う。

2012年の終わりから僕は一人暮らしをまた始めた。兄が引っ越しを手伝ってくれたおかげで引っ越しはすぐに終わった。兄はなぜか中型のトラックやマニュアル車の運転も苦にしないので、こういう時に非常に頼りになる。そこから、年にまた数度合うだけの間柄になるのだが、いつ会っても信頼関係で結ばれているような安心感を感じるのは不思議だった。このような感覚は、他のどのような間柄の人間に対しても抱くことはない、兄弟特有のものなのではないだろうか。

僕が日本に帰ってきて初台の家に住み始めてから少しした頃、高円寺の時代から付き合っていて、僕も何度も会ったことがある兄の彼女(今は奥さん)が訪ねてきて、婚姻届にサインを書いてほしいとお願いをしてきた。そしてその日からだいたい一年くらいたった5月18日に、兄は挙式をその人と挙げた。その日が晴れてくれたらいいと、深夜を過ぎて家に帰ってきてから強く願った。正直な話、結婚式に出ることほど億劫なことはないと思う。人の幸せを願う場ではあるが、人生に一度とは言えそのような負担を他人に対してかけて良いものだろうかと自分なら思うからだ。しかし、兄の結婚式については心から楽しめたし、嬉しかった。結婚式をこれくらい前向きに受け止められるのはおそらくこれが最後だろうと思う。お互いの親族だけをあわせて12名で開催された挙式ではあったけれど、余計な演出もなく、笑いの絶えない気楽な結婚式だった。涙もろいうちの母親でさえ、一度も涙を流すことはなかった。僕は紋付き袴を着た兄の姿を見た瞬間に大爆笑をしてしまったが、その半分は嬉しさで、あとの半分はなぜか沸き起こる照れの感情だった。

式の間中、祖母の形見のフィルムカメラを片手に節操もなくフラッシュを焚いてたくさんの写真を撮った。まだ現像はできてはいないし、写っていたとしても暗くてブレているからきっとまともなものはほとんどないだろうけれど、あとから見返すのが楽しみで仕方がない。奥さんの家族の方々ともすぐに打ち解けられたし、自分の両親と向こうの家族との関係も全く問題がない。家族が増え、親が増え、兄弟が増え、そして鼻をたらしたわがままな姪っ子ができた。結婚は人と人とのつながりを緩やかに生んでいく。そして新しい人生が、新しい形で始まっていくのだろう。久々に晴れ晴れとした心持ちの1日を過ごすことができて、ゆっくりと眠ることができて幸せな1日だった。

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