ESSAYS IN IDLENESS

 

 

American Boyfriend - Trip to Okinawa - Day 4

DSCF0743.JPG

朝、久高島からフェリーで本島へと戻る。海は相変わらず青く澄んできれいだった。久高島から戻り那覇市内のレンタカーで車をピックアップ。車を手に入れると一気に行動範囲が広がって行く気がする。それが自分にとっては旅をしているということを示しているのだと体感的にわかる。たとえ借りた車が汚れきったおんぼろの軽バンだとしても、心はアメリカで旅をしていた頃の気分に戻っていくようだった。

沖縄を北上し北谷を目指す。途中で昼ごはんを食べる為に立ち寄ったのはA&Wというレトロな佇まいのお店ハンバーガーチェーン。沖縄の観光スポットとして有名なA&Wは、古き良きアメリカのスタイルを残した素敵なバーガーチェーンで、今はもう見ることが殆どできない屋外での注文ができるシステムが残っていることにまず感動を覚える。駐車スペースに車を止め、窓を開くとメニューの書かれたボードがあり、赤いボタンを押すとお店と会話ができる。そこで注文してしばらく待つと店員が品物を車まで持ってきてくれるというやたらと手の混んだ、非効率的だ。もちろんドライブスルーも残っているので、この懐かしい感じを再現するためにこの機能を残していると思うとこのお店には本当に頭が下がる。そのシステムをいち早く使ってみたいという気持ちはありつつも、まずはゆっくりしたかったので店内で食べることにした。シグネチャーと思われるバーガーと、A&Wでしかおそらく飲むことが出来ないルートビアを注文。ルートビアはアメリカで何度か飲んだことがあったが湿布くさいドクターペッパーのような感じで正直得体の知れない飲み物だった。A&Wの入り口にはルートビアの誕生ストーリーが書かれていて、そこでこの飲み物がどういう出自のものかを初めて知ることができた。

アルコールを飲めない友人のために医療効果のあるハーブをいくつもブレンドした炭酸飲料を1890年代に生み出したのが始まりとされ、今ではアメリカの市場の数パーセントを占めるまでに拡大。各地方独自のルートビアも生み出されている。ルートビアは沖縄に残ったアメリカ文化の象徴の一つであると同時に、アメリカが開拓された頃から続く大切な飲み物であると言えるだろう。ここでルートビアのルートが「根」を示すものだと気がつくことがでいて良かったと思う。A&Wのルートビアは店内で飲むと専用のサーバーからお代わりし放題。そして最初の一杯はキンキンに凍った専用のジョッキで飲むことが出来るのだがこれが非常に癖になる美味しさ。しっかりと味付けのされた肉厚のバーガーと ルートビアの相性は抜群。すいすいと食事が進み更にもう一杯のルートビアをカーリーフライと一緒にいただくと、これまた至福な味わいがする。店内には観光客だけでなく、地元の人もいるようで、この場所が長らく沖縄の人達に支えられてきたことがうかがえる。旅ではそういう場所に巡り合えただけでその日1日はだいたい幸せに過ごすことが出来る。

そこから今日の宿となるスパイスモーテルという場所につく。内装はちいさなエースホテルのような感じで、ひらけたバルコニーがある。最初はソープランドの裏の立地ということもあり多少驚いたが、空間の気持ち良さやおしゃれさで全て帳消しにできるだろう。お店の人に話を聞きながら美味しいコーヒーをいただく。夕方からであればビーチに行って、ビーチ沿いのレストランでご飯を食べたり、テイクアウトしたメキシカンを砂浜で食べるのがオススメとのこと。北谷から最寄りの海はアラハビーチといい、カリフォルニアのベニスビーチに似た雰囲気が漂っている素敵な海辺だった。様々な肌の色、国籍、年代の人たちが思い思いの時間を過ごしている。犬の散歩をしいてる米軍の人達もいれば、バーベキューを楽しむ観光客もいる。そうした多様な時間が交差する場所がこんなに美しく気持ちの良いビーチで、心底沖縄の人々が羨ましく思える。FLEXという名前のジャマイカ料理屋のテラス席で、夕暮れを見ながら食べるジャークチキンはひたすらに最高だった。店内はアメリカ人の方々の大型予約が入っている様で詳細には見れなかったが、まんまアメリカのダイナーをもってきたような内装はとても良かった。お客さんもアメリカ人と日本人が半々くらいで、英語で陽気な笑い声が漏れてくるのは聴いていて懐かしい感じがした。

そこから、夜はコザの街へと繰り出す。コザの街は調べた限りは音楽の街という触れ込みで、確かにいくつか音楽が聴ける場所があるようだった。しかしながら訪れたコザの街は明らかに不穏な雰囲気がちらつくシャッター商店街だった。ゲート通りというメインストリートと思しき場所には時代遅れのテーラーショップ、ジャークチキン屋、タトゥースタジオが点々と軒を連ねている。プールバーやクラブは外人の溜まり場と化しており、日本人はほぼいなかったように見えた。アーケードの中はほぼシャッターが降りていて、ヒップホップのコスチュームをした兄ちゃんが肉を焼いているものだからアーケードの中が煙で真っ白になっている。何より臭い!最初はライブでも見てみるか、という軽い気持ちで訪れた町だったけれどこれはなかなか勇気がいる。最終的には、ゲート通りの端にあるOCEANという名前の良い具合に古びたカフェに入った。

ガラガラの店内には客が2人カウンターに座ってマスターと話している。ボックス席に座ろうとしたら「こっちにきたらどうだい?」と声をかけてもらったのでせっかくなのでご一緒させてもらうことにした。「こんなところに飛び込みで来るなんて、勇気があるね」と初老の男性が言う。聞けばこの店に何十年も前から通っている生粋の常連のようで、もう1人もそうだった。「ここのタコスとクラブハウスサンドは沖縄で一番うまい、つまり日本で一番うまいってことだ〜!」とオススメされたのでコーヒーとタコスを少し注文した。揚げたての生地に挟まれたジューシーな挽肉が素晴らしく、確かにこれは人生で一番のタコスかもしれないと舌鼓を打つ。なんでもローカルの人のオススメに乗っておけば良いというのも旅の楽しみの一つだろう。店のマスターはもうこの人達とだいぶ長いこと話しながら飲み始めていて、気分が良くなったのか度々店の手前のライブスペースで自前の歌を弾き語りしてくれた。

このカフェはコザで50年続く老舗で、沖縄返還前から既にこの地で営業を開始していた。ここコザは戦後沖縄史を語る上では非常に重要な土地で、その中でも最も有名なものが「コザ暴動」だろう。沖縄返還直前の1970年、米兵の暴挙に耐えかねた市民がコザの街の米兵に対して起こした大規模な抵抗だった。今でも度々米兵による犯罪がニュースになるが、当時は現在の比ではなかったらしい。沖縄県は日本の法律も、米国の法律も適用されなかった。米兵の起こした犯罪はアメリカ側の裁判に委ねられていた為に治外法権状態となり、長い間虐げられてきたという事実がある。ここに来る前までは自分がアメリカ文化に惹かれているということになんの疑いもなかったが、ことこの街においては自分が吸っているアメリカンスピリットの箱を出すことさえ気恥かしく感じられる。この街で感じた日米の隔たりというのは長い歴史の中で積み上げられた反米感情が影響していることは間違いがない。 常連のお客さんの1人がこれからライブを見に行くというので話を聞いてみると「コザには下手なバンドは出演出来ない、何故なら米軍が瓶を投げつけて来るからだ。だからいまでもステージと客席の間にフェンスが張られている店もある」とのこと。いまではもうさすがにないらしいが、下手な演奏をしたバンドには容赦ない仕打ちがあったらしく、その時のことを話してくれた。沖縄の人達と米軍の人たちの関係性というのはこうした会話の節々、語り方一つからでも感じることができる。「俺は戦争に関わるものは全てが許せない」と酔っ払ったマスターが言っていたことは強く記憶に残っている。「沖縄は基地があるから交付金で儲かっていると思うだろう?でもこの街を見ればわかる通り、何一つそれらが生かされていないのはわかるよね?交付金というのは結局本土の大手ゼネコンや企業が多くを持って行ってしまい、地方には雀の涙ほどのお金しか残らないんだ」「今度の参議院選で安倍内閣を止めなければ、日本はもっと収拾のつかないことになる。それを東京の人はわかっているのだろうか?」と彼は言う。政治的な話に敏感で、僕が知らない話をたくさん教えてくれた。こんな真面目な話ばかりしているかと思いきや、くだらない話をしたり、マスターの作ったCDをみんなで聞いたりしながら夜は更けて行った。マスターの作ったCDは結局ただでもらうことができたのだが、その一曲目「タコスを食べに行こう」は名曲だった。「コザの街はミックス文化  だからタコスを食べに行こう」という歌詞は、街の雰囲気や歴史を鑑みると深みと重みがあるように思える。やっていることは国道と店の紹介だけなのだけれど、なぜか染み入るし、純粋にいい歌だなと思う。東京に帰ってきてからもたびたび聞いてしまうこの曲のことは、タコスを食べるたびに思い出すと思う。

夜が更けていくにつれて、彼らの酔いは更に深まり、また別の友人が来店し、会話は混沌を極めた。そうしている間に何人か、外人の女性やヒップホップの格好をした男性が店を訪れたが、店のマスターは「Sorry! Kitchen close!!」と全員を追い返した。「俺はシンガーソングライターだからヒップホップに飯は食わせねぇ!」と叫んだあと「みんな本当に差別は良くない。」と真面目な話をしているものだから。支離滅裂すぎて笑ってしまった。泥酔していながらも、度々心に刺さる名言(迷言)を言い放つこのマスターは、根はとてもリベラルで頭のいい人だ。もらったCDには前書きが書いてある。その最後には「人は優しくなるために勉強するんだ」と書かれていた。

hiroshi ujiietravel