Wisdom Teeth Sucks
アメリカの旅行から帰ってきて、ようやく体調が戻ってきたので雑感を記録しておく。
ここで言いたいことは、親知らずはクソすぎるということ唯一つ。それだけ。
そもそも「親知らず」なんて名前が縁起が悪いって時点でクソすぎる。英語でも分別がついたころから生えてくるので「Wisdom Teeth」とか呼ばれてるらしいが、似たような意味で名前をつけられてる時点でクソ。人間の進化の過程で退化しそこねて残った(退化しきれていない)もので、残ってる意味もなくなんのメリットもないのに残ってるっていうのももう全くダメ。
かなりの人たちが勘違いしているかもしれないが、親知らずの痛みは「生えてくるときに歯が押される」だとか、「抜くときに痛い」だとか、「抜いたあとに痛い」ということなのだけれどどれも結構間違っている。問題は「抜かずに放置して起きる炎症が一番ウザくて辛い」ということだ。これを見た人はそれだけを覚えて、即歯医者の予約を取ってほしい。
旅行中に何が起きたかといえば、その一番うざいやつが起きたということだ。そもそもとして、親知らずが生えたのはおそらく20代半ばで割と遅いほうだと思うが、抜く暇がなくて結構ずっとほっぽっていた。それが悪いといえば悪いのだけれど、痛くないなら抜かなくてよいという歯医者も悪いだろうと思う。歯というのは歯茎の隙間に若干の隙間があるのは誰でも知っていると思うが、親知らずにも同様に隙間がある。見えないところにあるから認識しにくいが、実はある。しかもここは磨きにくくて比較的汚れとかが溜まりやすい場所とされている。体調が悪くなったり、免疫力が低下したときに、ここに炎症が発生するのだけれどそれが「一番うざいやつ」の正体だ。
旅行前に親知らずを抜こうと思って歯医者に行っていたものの、予約が取れずそのまま旅行に行くことになった。まあ痛みはないし大丈夫だろうと思っていたが、それが良くなかった。というか急に来た。旅行をして数日したある日、顎の付近に違和感が出てきた。親知らずが動いてるのか。。。?と思っていたがそれは違った。日に日に、痛みがでる感覚が短くなり、痛みの強さが増してくる。ある日、夜中に何故か目が覚めたと思ったら顎の右半分に激痛が走っていたからだった。とりあえず痛み止めを飲んで寝て、明日の朝には回復しているだろうと思ったが、朝から既に痛い。そして口がどんどん開かなくなってくる。でかいブリトーを食べようとしたら顎の激痛で半分も食べられなかった。痛みが出るのが怖くなり、ロキソニンの摂取量と摂取感覚が短くなってくる。持ってきていたロキソニンが切れ、同行していた浅倉の常備薬を分けてもらい(まじで助かった、、、)、アメリカの薬局でヤバそうな薬を調べて買って「痛みがどれくらい抑えられるか」を自分の体で実験しながら毎日何度も薬を飲んだ。だから、今回の旅ではだいぶ薬に詳しくなった。
対処薬として万能とされるロキソニンだが、実はアメリカでは処方されないし売られてもいない。なぜかというと胃に深刻なダメージがあるからだ。ロキソニンに含まれるロキソプロフェンという物質は、血管の中に含まれる「痛みを感じる成分」を酵素の力で分解するものだが、その副作用として胃の粘膜を弱らせる効能を持っている。つまり消化能力が弱くなって胃腸に負担をかなりかけることになる。だから常用していると胃潰瘍になったりするリスクを追うことになる。これは自分にとっても例外ではなく、「薬を飲まないと顎が痛くて辛い、飲むと胃腸が気持ち悪い」という状態に陥った。加えて胃に優しいものはほとんどアメリカに存在していないので、帰国後しばらくしても胃の不調は消えなかった。救いは優しい味のカオマンガイだけだった。(Nong’s Khao Mangai最高)
一番つらいのは夜、痛みで目が覚めてしまったときだ。そのまま寝て朝になってくれよ、、、と思うのだけれどそうもいかない。薬を飲むと摂取の感覚が短くなってしまい量が増えることになるので、我慢してそのまま寝ようと試みるもやはり痛みが気になりすぎて寝れない。だから食べたくもないヨーグルトやバナナを痛みに耐えながら食べて、薬を飲み、薬が効いてくるまで暗いモーテルの部屋でボーッとしながら痛みに耐え、寝る。翌朝も痛みで起きて憂鬱な気持ちになり疲れてだるい。なんなら、ロキソニンで解熱されているせいで体温も低い気がする。親知らずが原因になっているので、きちんと治療しないと痛みが緩和されないことから、自然治癒ののぞみもなく絶望に暮れるしかなかった。飯もアグレッシブに食べられないし、夜も痛みがぶり返す不安で出歩けない(実際に夜は体温の関係で薬の効き目が弱くなるらしい)。ロキソニンが切れてから、薬局を何件もはしごしてたくさんの痛み止めを買った。ヤバそうな局所麻酔も買って塗って舌の感覚がなくなったりもした。ほんとうに、それさえなければ最高だったのになぁ(痛みを差し引いても最高なんだが、もっと最高だったはず)。
一つこの経験から思ったのは、普段普通に飯が食べれて眠ることができるというのはめちゃくちゃいいことだ。まともに飯が食えなかったり、夜に痛みで目が覚めたり、そしてそれが「治る見込みがない」という事実は精神をどんどん後ろ向きにして、不安にさせる。例えば、アトピーや喘息のような完治しない病気にかかっている人や、ガンのような病気と戦っている人たちというのはほんとうにそれだけで尊敬に値する。もし自分だったら、生きる気力がだいぶ削がれてまったく違う人生になっていたはず。常日頃、富士そばや松屋しか食べてない自分が「ちょっと哀れだな〜」なんて思ってたこともあったけど(別に不満ではないし、美味しいと思って食べているけど)、それだけでもすごく恵まれたことだった。選択肢が奪われてしまうことへの悲しみは途方に暮れるしかない。
もう亡くなって15年くらいたつ僕の祖母が、長いことC型肝炎と戦っていた。塩分をすごく制限されるため、実家の味噌汁は長いこと極端な薄味だった。祖母はそこに更にお湯を足して飲んでいたし、他のおかずも祖母のぶんだけ別に作られていた。僕はその薄味の味噌汁があまり好きではなかったけど(文字通り毎食出るし、たまに食べるインスタントの味噌汁がクソ美味しく感じた)、祖母はそれをありがたがって飲んでいた。C型肝炎は不治の病で、ほんとうに毎日病院に行って注射を打たれていた。おそらく僕が生まれるずっとずっと前から。毎回打つ場所を変えなければいけなくて、内出血を起こした両腕は常に痣だらけで、腕に打つ場所が無くなってからは足に痣を作っていた。病状が深刻になってからは入退院を繰り返し、どんどんそのスパンが短くなっていった。次に入院したら家に帰ってこれないかもしれない、これが一緒に家で過ごす最後になるかもしれない、と祖母のいない部屋で両親と何度も話した記憶がある。ただ、僕の祖母はそのような病気を抱えていても毎日をかなりアクティブに過ごしていた。祖父と一緒に何度も旅行に出かけていたし、料理も毎日作り、裁縫や編み物をしたり、やったことのない短歌や水彩画も60歳を越えたくらいから1から勉強し始めていた。趣味はほんとうに多岐にわたっていた。おかげで祖母の遺品は奇抜な創作品だらけだった。僕が幼い頃は一緒にスーパーマリオをやったし、なんなら保育園から帰ったら祖母が一人でプレイしていることすらあった。最後、病院で息を引き取るその一週間くらいだけは完全に意識が混濁してしまい、かつての元気な祖母(元気じゃないんだけど)の姿ではなく急激に老化しやせ細った姿だったが、最後の入院の前日までは「これが死を迎える人の姿なのか?」と疑ってしまうほどだった。最後の入院する前日、祖母の食べたいものを最後に食べさせてあげたいということで母親がリクエストを聞いた。祖母の答えは「ラーメン」だった。実家のすぐ近くにある、何ということのない普通の田舎のラーメン屋の味噌野菜ラーメンを減塩せずに食べた。祖母はその普通のラーメンを「おいしい、おいしい」と言いながら食べていたらしい。母親からその話を聞いて、普段の味噌汁を美味しいという祖母の言葉は嘘だった、と初めて知った。「薄味に慣れたら、これでもしょっぱいんだよ」と何度も聞かされていたから「きっとこれでも祖母には美味しく感じるのだろう」とずっと信じていた。平気そうに振る舞う裏では死を恐れていたらしく、長いこと睡眠薬を服用しないと寝れなかったらしい。それを知ったのは祖母が亡くなって祖父からその話を聞いたからだ。そういう祖母の姿と、親知らずごときの痛みでガタガタ言ってる自分を照らし合わせると、よほど僕の祖母は精神が強かったし、僕には到底そんなことはできないだろう。
話が脱線してしまったけれど、とにかく言いたいことは親知らずはクソ。斜めに生えてたら絶対に抜くべきだし、定期的に歯医者には行くべき。普通に寝れて毎日美味しく自分の望むものを食べられる事自体めちゃくちゃ最高でエブリデイがハッピーだぜ!!ということだ。