ESSAYS IN IDLENESS

 

 

The Year of Magical Thinking

昔泊まったアラスカのロッジのベッドルーム

昔泊まったアラスカのロッジのベッドルーム

来月のアメリカ旅行を控え、ジョーン・ディディオンに関する書籍や映像を見ている。Netflixでのジョーン・ディディオンのドキュメンタリー『The Center Will Not Hold』、そして『悲しみにあるもの(The Year of Magical Thinking)』、『マクマホン・ファイル』、まだ買ってはいないが『さよなら、クインターナ』も読む予定だ。ロサンゼルスに長く滞在し、その間にマリブに行く予定があるので彼女の住んでいた家に行ってみたいと思っている。その家は『The Center Will Not Hold』にも映像が出てくるが、海が見渡せる素敵なウッドデッキのある素晴らしい家だ。この家の工事を頼まれたハリソン・フォード!が「本棚が増えていくんだけど、マジでわけわからん!」というエピソードを披露するところなど、この家庭のぶっ飛び具合に思わず笑ってしまう。

もともとスタイリッシュで聡明な女性作家だという印象だったが、『The Center Will Not Hold』や彼女の夫が亡くなったときのエピソードを記した『悲しみにあるもの』を見ていても変わらない。ディナー中に夫が倒れ、その開いた瞳孔の中に闇を見る。そして娘も同じ時期に入退院を繰り返し、頭蓋に穴を開けられたり、気管を切開したり、死の淵に立たされる。それを書き、調べるという行為を通しながら整理し消化していくのがこの『悲しみにあるもの』の大まかな内容になる。読んでいてここまで冷静に(おそらく本人はまったく冷静でないというかもしれないが)、客観的に、淡々と人の死に対して向き合った本などこれまで読んだことがない。作中では何度も「自己憐憫」というワードについて触れる。自己憐憫に陥る、なぜ私だけにこんなにつらいことが起きてしまうのか、私は可哀想な人間である、というニュアンスの言葉は一切出てこない。そして、未亡人としての悲しみを綴り読み手の同情を誘うものではなく、気丈に振る舞う自分を褒めてほしいという打算が含まれているものでもない。ただ、一人の作家として人生でもっとも大切な人間を失うことへの経過を、天才的な洞察力と客観性によって精緻に書き記したものだと思う。彼女の筆力によって、読んでいるこちらの心や体のあちこちが痛く感じてしまうほどだった。邦題が『悲しみにあるもの』という、客観的な視点を持っていることが素晴らしい(翻訳された方もさぞ考えたことだろう)。もしこれが『悲しみを乗り越えて』のような陳腐なタイトルであったとしたら、きっと手に取らなかっただろう。

「大切な人間を(永遠に)失うこと」は、誰にでも訪れる。誰しもそれを乗り越えようとしなければいけないし、そのうちの何割かはそれがうまく行かない。彼女のように悲劇的に失うこともあれば、より凄惨であったり、より理不尽なこともある。それを彼女自身がわかっているのだと思うが、こうして自己憐憫に陥らないよう努力を最大限にしていく、強くあろうとする姿勢に感動を覚えざるを得ない。話自体はとても悲しく辛いものではあるが、彼女の娘クインターナは本当に彼女のもとに生まれてよかったのではないだろうか。辛いエピソードの中に時折現れる娘とのふれあい、例えば学校が休みのときには必ずホテルのスイートルームで一緒に過ごす時間を持つ、などは時間や場所(あと、莫大な資本)に縛られない親がいなければ成立しない。だから、悲しい話の中にも、こんな素敵な両親のもとに養子として迎え入れられて本当に良かっただろうなと、そのことについてだけは少しだけ救いを感じた。

このような作品がアメリカで支持されているということは大きな意味を持っている。正しいものが正しい評価を受けて人々に認知されることはとても重要だ。絶対に揺るがない芯の部分の正しさと、悲劇を智慧へと導くことができるユーモアだけは何物にも代えがたい正義だと思う。(思えば、ユーモアに相当する日本語がないというのは、根本的にまずいことなんじゃないかと思う)

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