ESSAYS IN IDLENESS

 

 

Florida Project

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土日にかけて3本ほど映画を見に行くことができた。何もしないと決め込んでしっかりと休めた週末はかなり久しぶりな気がする。土曜日は日比谷へウェス・アンダーソンの新作「犬が島」とグレタ・ガーウィグの監督作品の「レディバード」、そして日曜に渋谷でみたショーン・ベイカーの新作「フロリダプロジェクト」の3本。そのどれもが非常に素晴らしい作品だった。

「犬が島」はウェス・アンダーソンの映画に通ずる「家族」というテーマからまた一切ブレていなかった。そしてアニメーションというこれまでとは全く違った手法を用いて作られているが、完全に彼の映画であるという演出がなされている。土曜の夕方ということもあり僕の周りにはおしゃれなカップルしか座っていなくて、圧倒的なアウェー感がある中での鑑賞だった。「アニメが可愛かったね!」という言葉がエンドロールの最中にちらほらと聞こえ始めて「いや、それ以外にも見るところあるでしょうよ!」と心の中でツッコミを入れながら会場をあとにした。日比谷シャンテの地下で一服してから「レディバード」を見るためにもう一度映画館へと向かう。客層は一気にサブカル、ナード、映画好きの様相を呈してくる。僕の隣にはスーツを着た60歳くらいのタクシードライバー風の白髪のおじさんが座っていた。映画が終わる頃にはそのおじさんは顔面がグシュグシュになるまで泣いていて、この映画がやはり間違いがないものだったことがわかる。「犬が島」も良かったけれど、個人的には「レディバード」のほうが10倍くらい感じ入るところがあった。よく聞く感想として、10代のよくある過ちやセンチメンタリズムみたいなことがあるけれど、それとは全く強度が違う。「あるある話」ではなくて「真実/事実」ということがベースとなっているであろうことは映画を見終わったあとに強く感じたことだった。実際のところ、主人公のクリスティンの生まれがサクラメントであることや、クリスティンの父親がコンピュータエンジニアであること、母が看護師であることやカトリック系の高校に通っていたことはグレタ・ガーウィグの人生そのものであり、自分の直感が正しかったのだなということはあとからわかった。いわゆる「あざとさ」のようなものが様式美として需要があることは理解しているが、その「あざとさ」が事実をベースにしているのか、虚構をベースにしているのかには常に敏感でなければいけない。この場合でいうと、「誰しもが経験しているであろうこと」を考慮して書く、のではなくて「自分が経験していたことを書いたら、誰しもが経験をしていた」ということ。プロセスの順序が逆なだけ、では済まない差がこの2つの間にはある。前者はそもそもが模倣品であることを理解して生み出されるが、後者はオリジナリティがある体験がベースとなるため、似たような作品はあるかもしれないがどこまで突き詰めてもオリジナルと呼べるはず。それは見終わったあとに、鑑賞者に確かな感性が備わっていれば絶対にわかるはずだと僕は思う。「誰しもが経験しているであろうこと」を考慮して書くということは、いわばお節介な代弁のようなものだけれど、「自分が経験していたことを書いたら、誰しもが経験をしていた」ということは自分の何かしらの内面性を喚起するものだからだ。あの映画の特別なところ、異常なところは言葉にするのは難しい。でも、似たような映画とは一線を画する何かがあることが見た人には確実に伝わる映画だと思う。僕は女でもないし、あの映画のような黒歴史も(ベッドサイドに彼氏の名前を刻んだり、自分にミドルネームをつけたり、無駄に背伸びをしてみたり)、あんなに厳しい母親も、優しい父親もいなかったし、あの映画に対しては何の接点もない。おそらくは僕の隣でむせび泣いていたおじさんもそうだろう。だから、僕はあの映画にノスタルジーもセンチメンタリズムも共感も感じたりはしない。そういう軸で評価をしない。だから僕が間違いなく言えるのはあの映画が他の青春映画よりも遥かにに誠実であるということだけだろう。

「フロリダプロジェクト」もまた、とても印象に残る映画だった。幼い可愛い子供と貧困層の母親というこれもまたありがちな設定ではある。映画の設定や描き方も大げさな部分ももしかしたらあるのかもしれない、ただ僕はこの映画を事実として、現実のどこかで起こったことを描いたものだと感じた。それは僕は実際にフロリダを車で旅をしたことが大きいのかもしれない。あの映画に出てきたようなアイス屋やモーテル、マーケットや空き家、夕陽や何の変哲もない川沿いの風景。その全てを僕は知っていて、その色合いが僕が見たものとほぼ遜色がないように感じた。ああした一泊35ドルのモーテルにどんな人達が「住んでいる」のかということも見てきたし、実際に自分一人で泊まり歩いていたわけで、あれが虚構であるようには全く思えなかったし、演出としてやりすぎているとも全く思わなかった。レディバードにしても、フロリダプロジェクトにしても、アメリカ人というのはこうした救いのないような状況を描くのにユーモアを用いるという点において卓越したものがある。というかそれがアメリカ映画の素晴らしいところであり、自分がアメリカ映画を、ないしはアメリカという国のことが好きな理由の根幹なような気がしている。それこそが救いであり、優しさであり、圧倒的な正しさであるように見える。ただただ映画を通して感じられる人間的な優しさがどうしようもなく尊い。シネコンで上映されるような日本映画でよくありがちなのは突飛な設定や過剰に衝撃的な筋書き、お涙頂戴的な演出に、勧善懲悪を含めた迎合主義的なエンディングのようなものがあるけれど、そうしたものからは100万光年くらい離れたところに、本当に大切なことがあるのではないだろうか。

この3本の映画についてはもっと書くべきこともあるのだけれど、今日のところはいったんこれで。何にしろ、こうしてアメリカの映画を見る度に自分の中でアメリカに対する理解が深まっていくのを感じるのはとてもいいことだと思う。本当に昨年、アメリカに行っておいてよかった。

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