ESSAYS IN IDLENESS

 

 

SEE EVERYTHING ONCE / TRIP TO SOUTHERN DAY29

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サバンナ、おそらく英語の発音だとサバナと読むジョージア州東側の小さな美しい港町がある。そこはアメリカ南部の代表的な作家、フラナリー・オコナーの生まれた街として知られている。この港町の小さなアパートの一室で彼女は生まれていて、その家は現在文化資産として見て回れるようになっていた。街自体は美しく、レンガ造りの様式の建物が目立つ。文化的に洗練されていて、人々はどことなく品の良い雰囲気を漂わせている。パティオで優雅に朝ごはんを食べている人たちの傍らをカメラを持って歩き回っていると、なんだか少しうらやましいような気持ちもしてくる。本屋やレコード屋などもチラホラと見かけ、中にはおしゃれな若者がレコードを必死に探している姿が見える。きっとこの街は住みよいのだろうと思いきや、郊外の方へと車を走らせると雰囲気は一変する。壊れかけたあばら家やボロボロのトレーラーに住んでいるのは黒人の人達ばかりで、グラフィティだらけのガススタンドや潰れたグローサリーストアも目立っていた。海沿いには工場が立ち並びすえた臭いのする煙をもくもくと上げながら稼働していた。この街はジョージア州の中だと観光都市として位置づけられているけれども、おそらくそのエリアはダウンタウンのあたりだけのように見えた。手早くカフェでコーヒーを頼んで片手ですすりながら早足で街を歩く。オコナーの家を見るのもそこそこに、郊外の工場の雰囲気をたくさん写真に収めた。トラックが作った轍や、年季の入ったトラクターが無造作に停められているのを見ていると、どこかで見た映画のワンシーン、それかどこかで見た写真集の1ページのような気がしてくるし、実際そうなんだろうと思う。こうした美しい街を見て回るにはロードトリップはいかんせん時間が足りなさ過ぎるといつも惜しい気持ちになる。惜しい気持ちになるくらいだったらはじめから何もない街や、どこにも情報が載っていないような場所に行って自分なりの見方を見つけられればとも考えるのだけれど、そこまでストイックに何かを追い求めるようなタイプでもないよなと思う。

昼過ぎに街を出て、郊外にあるワッフルハウスへと入った。店員同士がサンクスギビングの話をして盛り上がっていた。店員は黒人も白人もおじさんやおばあさん、どんな人種も年齢も混じり合っていて、仲よさそうに接客をしている。この暖かい雰囲気はどの州でも変わらない。食後のコーヒーを飲みながらぼーっとしていると黒人の若いカップルが入ってきて、ボックス席に隣同士で座る。青いジーンズと赤いパーカーの組み合わせが黒い肌と奇抜な髪型に組み合わさっていてとても格好良く見えた。こういう色合いや服の組み合わせは彼らのようなスタイルがなければ成立し得ないものだろう。仲睦まじげに肩を組み合って、片膝をたててソファに乗せる。パンケーキを得意げに頬張る彼らの姿を見ていると心から憧れを抱いてしまう。そのままジョージア州を内陸に向かってドライブしていくと途中に古びたゴスペルハウス?か教会のような施設を見つけた。辺り一帯に人がいなくて廃村のようになっているが、どの建物もある程度綺麗に管理されているように見えた。小さな街の真ん中には線路が走ってはいるがそれがまだ使われているかどうかはわからなかった。埃だらけのガラス越しから室内を覗くと教会の椅子がピシッと演台に向けて並んでいる。空中に舞う埃が陽の光を反射して綺麗だった。室内も含めて、この街一帯が時が止まったように見える。それが沈んでいく太陽の光に照らされる瞬間はたまらなく美しかった。

この日の最終地点はメイコンと言う名前の中規模の都市で、町並みからわかることとしてはこの街が音楽と芸術に非常に力を入れていることだった。街の中にはレンガ造りの歴史の感じられる大きな美術館や議事堂が建っているのだけれど、そのどれもに大きな垂れ幕でミュージック・フェスティバルが紹介されていた。この街の出身者は僕にも馴染みが深くてオールマン・ブラザーズ・バンド、オーティス・レディング、リトル・リチャード、そしてR.E.M.のマイク・ミルズが生まれているらしい。どうやらこの功績のお陰でメイコンはジョージア州の中でも音楽の殿堂所在地として記録されているらしいのだけれど、この街に遅くに着きすぎた僕はその施設の一つも見ることが叶わなかった。唯一一人で入れそうだったのはダウンタウンにオープンしていた小さなピザ屋で、そこでペパロニのスライスを食べた。静かなピザ屋で大学のバスケットボールがスクリーンに映されているのを眺めていた。誰かがそのチャンネルを変えてフットボールが始まったところで持ってきた『アメリカ61の風景』を少しだけ読み直した。一息ついたら車を走らせようと思ったけれど身体が重たい。さすがにここ数日は運転のしすぎで疲れてきているのかもしれない。ふと、自分の中で見たものや感じたことを消化しきれないままにその瞬間瞬間を無為に過ごしてしまっているような気がしてきた。街や風景を注意深く観察することができていないということに気がつくというのは、旅の中において最低なことの最上位に含まれると個人的には思っているのだけれど、それが今だった。思い返してみればもう旅も30日を迎えようとしていて、僕は一人で30日以上の旅をしたことがない。29日目なんて「早くポートランドに帰らなきゃ!」という気持ちで心がいっぱいになって、ラストスパートをかけているような気分にすらなる。しかし自分の帰る街はアメリカの逆側の西海岸に面していて距離にしたら5000キロ以上も離れている。僕にはあと15日間旅が残されていて、その旅程は何も決まっていなかった。前回アメリカの北半分を回ったときには、既にもう故郷まであと数時間の距離にいたかと思うと今回の旅の長さ(距離的にも時間的にも)がこれほどのものかというのを改めて思い知らされた。決断というのは人に知らず知らずのうちに疲弊させる。何も決めない旅というのはその決断を先送りにしているだけであって、旅程を事前に組む旅と決断の総量は変わらないと思っている。自分はこのスタイルの旅が自分にあっていると思ったけれど、今その旅に自分が食われようとしていることに気がついた。この瞬間に学んだことは旅の最中に「本を読み返すこと」「地図を見返すこと」だけはやってはいけないということだった。それはつまり「過去を振り返ること」であって、旅の最中に過去を振り返り後悔をすることは目の前の景色を蔑ろにしてしまう行為へと繋がっていく。振り返るのは旅が終わったあと、それまではひたすらに進み続けるしか自分の決断を肯定するすべはないのだなと思った。

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