ESSAYS IN IDLENESS

 

 

MY LIFE IS STARTING OVER AGAIN

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アメリカでの旅を終え、そこから一週間ポートランドの友人の家に身を寄せる。アメリカに来てから出会った友達に会ったり、家族や日本の友人たちにお土産を選んだり、ポートランド内のお気に入りの場所に行って時間を過ごしたりした。そしてアメリカを出発して東京に1週間、そこから台湾へ2週間、ようやく日本に戻ってきたときには2018年が始まっていた。実家に帰ると祖父が末期がんに冒されていることがわかり、そこからまるまる2ヶ月病院へのお見舞いと家族のケア、そして葬式の準備と後始末に忙殺された。気づくと2月が終わっていて、そこから急いで職や家を探したりしているうちに3月が終わった。東京での新しい生活は慌ただしい流れを引きずったまま始まった。なかなかいい場所に住処を確保できたものだから、日がな素敵なカフェで時間を潰せるのがとてもいい。深夜を過ぎてもフグレンのテラス席でどうでもいい話をしながらタバコを吸ったりできる生活は、嫌らしさがあるけれど実際のところ最高だ。今では週に何度もコーヒーを飲みに行くようになった。たまにウイスキーを飲んだりしているのだけれど、きっともう少し暑くなってからそのテラス席でお酒を飲めるようになったら、きっともっと楽しくなるだろうと思う。そういえば、自分の家の窓際に机を並べているのだけれど、その窓から見える景色がとても綺麗だということも、今の家がお気に入りである理由の一つかもしれない。隣の家は廃屋のようにボロボロで枯れた植物に取り憑かれたようになっているが、その植物がブラインド越しに太陽の光を浴びて見えるのはとても綺麗だ。

生活が大変になったり辛くなったりしたときに、自分が「何かをしなければ」と思って始めたことはアメリカのことを思い返すことだった。旅を終えてから気づけば4ヶ月も経った頃に、ようやく一つ一つ自分のしてきたことを振り返りはじめた。パソコンの中に溜めていたその当時自分が思っていたことや、感じたこと、見聞きしたことが箇条書きで書かれている。その断片的な記憶をゆっくりと紡いでいき、時系列でまとめていった。自分の書いた文字列が記憶の中の風景と結びつき、瑞々しく映像や音楽、手触りや匂いとして立ち上がってくるのを感じた。それは自分にとっての喜びであり楽しみになっていた。誰が見ているかもわからない自分のブログに推敲も見直しもしていない乱文を載せていくという何の生産性も意味もないことなのだけれど、それが自分にとって必ず成し遂げなければいけないことのように思えた。夜遅く帰ってきた日でもパソコンに向かうようになった。自分の書いた文章を見返していると「何かを書かなくては」という気持ちにさせられて、ついつい夜更かしをしてしまう。それは夜が明けてほしくないという思いも、どこか逃げ場所を探していたということも重なっていたのかもしれない。自分にとって日々の生活の辛さから逃れるためのシェルターとして、アメリカでの生活に思いを馳せるという日々が続いた。半分が義務感、そして半分は自分の消極性から生まれたこの行為は、いつしか密かな楽しみに変わっていた。昨日、その楽しみは一区切りを迎えた。書き始めた当初は70数日分ある(台湾旅行の分やその他の分も含めたら100日分弱)この溜まりに溜まった箇条書きの羅列に対して「いつ書き終わるのだろう」という気持ちでいたけれど、一日に一つずつを目標に少しずつ書き連ねていった。もちろん一日で書き終わらないものもあったし、疲れていてどうにもパソコンに向かえない日もあった。何も考えずにただ思ったことをつらつらと書き連ねるだけでも時間はかかるもので、一つの記事に対して少なくとも一時間以上はかかっていた気がする。ながければ2時間、3時間もかかっているものもあったかもしれない。そんなこともあって最初は途方もない作業に思えたけれど、いつかは終わりは迎えるものなのだなと思った。もう一度旅を追体験しているようにも思えてくる。長く終わりのない旅路が必ずどこかで終わりが来るように、僕の頭の中にあった二度目のアメリカ旅行も終わりを迎えた。アメリカのことを考えていられる時間は豊かで幸福だったと思う。アメリカのことを書き連ねている間、ほとんど映画も見ていないし小説も読まなかった。新しい音楽も聞かなかったし、美術館に行ったりすることもあまりなかったように思う。自分の中にある何かをひたすらに吐き出し続けていた。そういう生活はこれまで送ってこなかったけれどそれはそれで楽しかった。湧き上がる嬉しさや喜びというよりも、大きなパズルか何かを少しずつ解いていくときのような感覚に近い。自分一人で自分の過去と向き合い続けることはおそらく僕にとっては大切なことだったのだろう。自分が次に何をするべきかは正直なところ見えていない。自分がずっとやりたいと思ってきたことが終わってしまって、もし明日余命3ヶ月だと言われたとしても自分の人生に大きな後悔があるとは思わないだろう。明日から何をどうして夜を過ごすべきか考えていかないといけないなぁ。

hiroshi ujiietravel