SEE EVERYTHING ONCE / TRIP TO SOUTHERN DAY42
朝起きてからどこへ行こうかと考えていたら、近くに「Hidden Lake」なる名前の湖を見つけたので、朝の散歩がてら車を走らせて向かうことにした。時間は朝6時半、日の出が遅くなってきているせいで辺りはまだ薄暗さが残っていた。そういえば旅を始めてから果樹園というものを見たことがないことに気がついた。リンゴの木だと思われる果樹園が見渡す限りに広がっていて、葉についた霜が朝日で輝いている様は荘厳だった。辺り一面が光を反射している。真っすぐ進み、角を曲がり、そんなことを繰り返しながら果樹園に囲まれたこの道をしばらく進んでいくのだけれど、やはりアメリカだけあって果樹園の規模も桁違いだった。自分が農家だったとして、こんなにリンゴを作ったらどれだけ収穫に時間をかければよいのか途方に暮れてしまうかもしれない。果樹園を抜けて小高い山道に出ると、光る銀色の道と金色の平原が広がり、空は淡く美しい青色をしていた。この色のレイヤー、そして窓を開けて感じられる気持ちのいい冷たい風が本当に気持ちがよかった。Hidden Lakeの正式な名称はヘンリーレイクというらしく、確かに隠された場所にある小さな湖だった。山の中の小さなくぼみの中に水が溜まってできた湖らしい。水が流れ出るところも入ってくるところもないということは、この湖の水は雨水と雪解け水からできているということなのかもしれない。この湖の水の透明さと美しさ不純なものが含まれない、完璧な美しさだったように思える。湖のそばにある大きな岩の上に腰掛けて、ゆっくりと持ってきたコーヒーを飲む。辺りには誰もいなくて、動物や鳥のいる気配すらなかった。恐ろしく静かで、凛とした空気が漂っていた。
更にその湖の近くには「ベン・ハー」という名前の街を見つけた。まさかと思ってはしゃいで車を走らせその場所へ向かう。山の斜面に沿うように進んでいく。本当の田舎道で、車一台が通るのが限界というところを進んでいく。牛や羊の群れと何度も遭遇しつつ、見える景色の雄大さに感動する。やっとのことその街らしき場所を地図が指し示す地点へと到達したが、そこには何もなかった。何もなかったわけではなかったが、その場所は誰かの牧場があり、そしてその入り口の道路には「USA」とだけ白いチョークで書かれていた。唐突であっけないこのUSAというサインにアメリカらしさの全てが詰まっているような気がして感動したことを覚えている。ヨセミテの麓にあるこのベン・ハーという架空の街(そこには本当にかつてベン・ハーという街があったことは調べてから知った)、そしてそのロードサインのUSAという文字は、なぜかルート66のサインよりも自分の中でしっくり来た。この街がなぜベン・ハーというのか、それは言わずもがな同名の小説から取られているからだった。しかしなぜベン・ハーという名前を取ったのかは全くわからなかった。それでも、不思議なことにこの場所から物語というものを感じずにはいられなかった。どんな小さな街にも愛らしいストーリーがある。
前回カリフォルニアへと旅行したのは前年の12月末、そして1月はじめのあたりだった。当初目標としていたヨセミテ観光は旅程の関係から泣く泣くスキップした。そしてその大きな理由は自分が車を運転しようとしなかったことにある。バスを使っていくこともできたけれど、高額なツアーしか残っていないことと、公園内の高額なホテルしか予約できないこともあり、費用的な意味でも現実感がなかった。アメリカという国は車を持たないものにはとことん厳しい国だ。移動の自由が効かないだけでなく、時間もお金も吸い取られていく。もちろん彼女もできないだろう。その点については日本よりも余程シビアだと思う。逆に、車さえあればいつだってどこにでも行けるしなんだってできる。圧倒的なスケールの景色や、死ぬほど美しいものを見続けることができる。様々な文化や人々に出会い、流れる時間を感じることができる。車とはアメリカにおいては生活必需品である。よく言われる「これこれがなかったら人生の半分損しているよ」というフレーズがあるけれど、本当に99%くらいの人生を損してしまうのではないかと思う。車を持たないことは、鎖につながれた犬程度しか世界を認識できないということも言えるだろう。必然的に閉ざされた狭い世界を生きてしまうことになる。僕は今回こうして車でヨセミテまでいくことができた自分が少しだけ誇らしかった。前回ヨセミテ行きを諦めた時、きっと自分はもうあの場所に行けることはないのだろうと勝手に思っていたけれど、旅の偶然によってこうしてヨセミテの近くまで来ることができた。「あとすこし、あとすこし」と自分に言い聞かせながら、ちょっとずつ自分の行きたかった場所へとにじり寄って行くことができた。雪も降っておらず路面も凍っていないのは、ここまで頑張ってきた自分の役得だろう。懸念していた問題も全て運で解決し、ノーマルタイヤでも問題なく国立公園まで行くことが可能だった。
ヨセミテバレーは巨大な花崗岩の一枚岩に囲まれた地帯だ。国立公園の場内に入る前からその圧巻の景色は続いていく。高さ1kmはあろうかという巨大な花崗岩に挟まれた谷底には川が流れていて、その川に沿うように道路が通っている。道路のメンテナンス中ということで度々交通整理が入り渋滞が起きていて、なんだかんだ1.5時間くらいはとまっていたような気がする。落石や倒木など様々な災害に対して、公園の係の人たちが都度都度重機を持ってきては対応をしていた。ヨセミテは信じがたい絶景に囲まれた国立公園だった。僕がこの公園に対して漠然と憧れをいだいたのはYuri Shibuyaさんという写真家の方の『Camp4』という写真集がきっかけだった。原宿のギャラリーで偶然写真展を見たことがきっかけだった。彼の写真に写っていたのはそれこそ僕が今まさにみていたノースドームやサウスドームの岸壁の縁から立ち小便をする人たちだったり、途方も無いくらい高いこのつるつるとした壁面にへばりつくロッククライマーの姿だったり、この素晴らしい景色の中で仲間と楽器を鳴らしたり、本を読んだりしている人たちの姿だった。その光景に対して純粋に憧れた瞬間のことを思い出した。残念ながら、今の季節にクライミングをしようという命知らずはいなかったし、Camp4(ヨセミテアタックの際によく使われるベースキャンプ)には誰もテントを張っていなかった。その壁面に歩いて近づき壁を触ると、氷のように冷たかった。そして自分が予想していたよりもまったく掴みどころがない。どうしてこんな場所を登ろうと思うのか全くわからないのだけれど、それをやりきろうという人がいることが驚きでしか無い。顔を上げてぐるぐるとその場で回るだけで人智の及ばない自然の豊かさというものをひしひしと感じることができる。公園の真ん中には美しい川が流れていて、その上流にはミラーレイクという湖がある。トレイルを登ってその湖へといくと、マリファナを吸うカップルや、親とはしゃぐ子供たちが美しい風景の中に同居していた。雲ひとつない空、岩山が反射していて逆さに映り込む湖。あたりには巨大な岩が転がっていて、大人も子供もみんなその岩に登ろうとしてやっきになっている。あたりは背の高い木に囲まれているため昼でもだいぶ暗かった。ヨセミテで見た木々はほかのどんなもりよりも背が高くて、夕方そこに差し込む光のこもりぐあいが美しかった。この公園の森林がどれほど長い時間をかけてできたものなのかわからないけれど、そこで流れた時間の分だけこの森は高くなり、あたりはより暗くなっていくのだろう。ヨセミテに関してショックなことの一つに、この場所の知名度はアップルのコンピュータによって上げられていることを否が応でも認識しなければいけないことだ。El CapitanやYosemiteというOS名にしても、壁紙にしても、それがヨセミテから来ているということを多くの人が知っている。それはスティーブ・ジョブズがヨセミテで結婚式を挙げたことから来ている(多分)というのを知っている人はそう多くないのだけれど、自分がヨセミテにきた!というのを嬉しがって話をすると「ああMacのとこ!!」と返される確率は90%を超える。それだけでこの現代文明の塊である右手に持ったiPhoneを投げ捨てたくなってくるのだけれど、それはヨセミテの間違った解釈で、そんなことを言う人達には、この場所はクライマーの聖地であり、素晴らしい自然公園であり、ヒッピーがいて、歴史と伝統のある空間で、人間の作り上げることが到底及ばない神秘的な場所で、人々に今も昔も、そしてこれからも愛され続ける場所だということを伝えていきたい。帰り支度を済ませて公園からでていくとき、僕の車の後ろにはスクールバスが一台いた。つまり、このヨセミテから近くの学校に通っている生徒が少なくとも一人はいるということだろう。実家がヨセミテ、という信じられないロケーションにあるなんて、そしてそんな人生があり得るなんて、本当に不公平さしかこの世界にはない。
ヨセミテの素晴らしい夕暮れを見ながら、気づけば旅も残すところあと2日になってしまっていることに気付いた。どこまでも続いていくと思われたドライブも、ポートランドまであと1000マイルも走ればついてしまうくらいの距離になっている。数日前まではアメリカの西側で豪雨に打たれ、穴に落ちて死ぬ思いをしていたと思っていたら、今はこうしてゆったり流れる時の中で渓谷を通る景色のよい道を走り、青く染まるヨセミテの山並みを見ながら優雅に過ごしている。前の旅ではもう疲れ切って早く帰りたいと思ったこともあったけれど、今は死ぬまでこうして旅を続けられそうな気もした。何かを求めるためだとか見るためでなくて、普通に旅というものが好きなんだなということに気づき始めた矢先、自分に残された時間はもう全然なかった。