SEE EVERYTHING ONCE / TRIP TO SOUTHERN DAY37
コロラド州の郊外から州都であるデンバーへとルート86を通って進んでいく。昨日の1000キロを超えるドライブの疲れは残っていたけれど、昨夜自分が走っていた場所が実はこんなにも美しい場所だったとは思いもしなかった。あたりは鮮明な金色に輝く草原、そして冬の寒さによって出てきた霜が朝日を受けてキラキラと煌く。空はこれ以上無いほどの快晴。朝焼けの淡い青から徐々に強まる光が景色を劇的に変えていく中、この道を進んでいるのは僕だけだった。窓を開けて車内の空気を入れ替えるのだけれど、入ってくる空気の冷たさと匂いがたまらなく心地が良い。たまに鹿やうさぎが道路を横断していくのだけは注意しながら、朝から最高の時間を過ごすことができた。道行く先々にぽつりぽつりと現れる小さな街や村も朝日を受けて美しく、静かに佇んでいた。
デンバーまで2時間ほどドライブをして思ったことは、思っていたよりも遥かに発展しているということだった。規模的に言えばロサンゼルスやシアトルに近い。これまで走ってきた田舎道の中に突如として複雑に入り組んだハイウェイや統一規格にまとめられた集合住宅が並ぶ。フェニックスの郊外でみたようなモール型の大型店舗が並び、都心に近づくにつれて大きな交通渋滞に巻き込まれることになった。デンバーといえば、日本でも馴染み深いジョン・デンバーを当然のように思い出す。彼の名前は彼が愛したデンバーの街にちなんでいるわけだけれど、彼の歌い上げる歌のような田舎の風景というのは少なくともコロラド州デンバーには見当たらなかった。このまま都心のビジネスエリアに行くこともできたのだけれど、この日の予定を鑑みると目的地を変更するしかなかった。そのまま郊外へと流れるように移動していき、向かった先は銃乱射事件の舞台となったコロンバイン高校。コロンバイン高校の隣には水鳥が何百匹も歩いているような広くて静かな公園があり、周りの住宅地は閑静で美しく、どうみたって平均以上の水準の暮らしが見えた。(※ガス・ヴァン・サントの映画『エレファント』でロケ地として使われたのは実はオレゴン州ポートランドにあるということは、この旅の旅程を決めている時に知った)このあたりをゆっくりと時間をかけて歩いて見ても、登校時間が過ぎていたからか誰一人として歩いていない。学校の駐車場には車がびっちりと並び、その中にはパトカーが何台か紛れていた。こんな静かで落ち着いた場所でどうしてあのような惨劇が起きてしまうのか全く想像がつかないくらいに、このエリアは今は平和に見えていた。アメリカの恐ろしい部分はここにあると、アメリカで一年生活してきて本当に思う。いつどこで誰が死ぬか、殺されるか全くわからないということと、その可能性が日常に転がりすぎているということだった。僕が暮らしていたポートランドのハリウッド地区の近くでも2件の射殺事件に3件の人種差別を起因とした刺殺事件が起きている。ガンショップも至る所にあるし、下手をしたらモデルガンを扱うかのようにスーパーマーケットにライフル銃や銃弾が陳列されている。田舎のトラックストップでは「銃規制反対!」のようなスローガンを掲げた帽子やTシャツが堂々と売られているし、喜々として射撃や銃の魅力を語る友人も少なくはなかった。それくらい重火器が手に入れやすく、日常に馴染んでいることを身をもって知った。「どの人でも懐に銃を持っている可能性を考慮しろ」とは旅に出る前にホストマザーに言われたことで、それこそまさに『善人はなかなかいない』の世界観だと思う。ただ、そのことを頭に入れていたとしてもこんな平和そうに見える場所で銃を乱射して爆弾を炸裂させることなど誰が想像できるものかと思う。いともたやすく人の命を奪う可能性があるものを、こんなにも簡単に手に入れられる世界はどう考えてもおかしい。コロンバイン高校銃乱射事件をモチーフにした映画はエレファント以外にもいくつかあるし、TV番組のドキュメンタリーに関しても数多く公開されている。旅をする前のその内の何本かを見たけれど、この事件についてよく言われるのはスクールカーストが起因となっていること、銃社会、精神病質、精神病の処方薬の副作用、様々な要素が重なっていることであるということだった。そしてその中でも銃の所持、利用に関する部分は最もクリティカルで対処可能な問題だと常々思っている。吐き気を催すほどの嫌悪感を覚えるのは全米ライフル協会のレポートや声明文で、それをニュースで見るたびにとても残念な気持ちになっていたことを思い出した。
コロンバイン高校から少しドライブをしたところにあるデンバーの名所の一つ、レッドロックシアターという屋外の劇場があるのだけれど、それは僕が見た中で最も美しい劇場の一つになるだろうと思う。名前の通り赤い岩肌を削って作られた劇場で、崖の斜面にそって観客席が付けられている。屋根はないけれど、快晴率が高いコロラド州においてはそんなに大きな問題ではないだろう。一番上の席に座ってステージを見下ろすと遠くにデンバーの街が、見上げれば青い空が、そしてその空間を仕切っているのは赤く輝く岩肌だった。まず、この会場にたどり着くまでの道がそもそも絶景だった。狭い山道を登っていくと切り立った岩肌が視界を覆い尽くすように現れる。その隙間を縫うようにぐいぐいと高度を上げていくとコロラド州の広大な大地が一望できる。そんな素晴らしい劇場は高低差を利用したトレーニングに勤しむ人たちや、犬の散歩、ただ本をもってゆっくりするだけの人、そして昼寝をしている人たちで少しだけ賑わっていた。日常的にこんな場所で贅沢な時間を過ごすことができるとしたらどれだけ人生が豊かになりえるか想像もしたくないほど、羨ましい眺めだった。
そこからグレートサンドデューンナショナルモニュメントへと向けて車を走らせる。相変わらず風景が圧倒的なスケールで広がっている。遠くに臨むシエラネバダ山脈、そしてコロラドの名峰パイクピークを望みながら平原をただただまっすぐに進んでいく。山の間を抜けていくときには美しい木々と川の流れ、山から降りるときには眼下に臨む湖や黄色に染まる草原。そのどれもが昨日まで久しく見ることができていなかった景色で、久々に自然の中に没入していくような感覚を覚えた。グレートサンドデューンナショナルモニュメントは平たく言えばアメリカ大陸で一番高所にある砂丘地帯で、そしてアメリカで最も新しい国立公園だとされている。ロッキー山脈の南東部にあたるサングレ・デ・クリスト山塊の裾野に広がるこの砂丘は大きさの面でいっても北米最大とされる。大陸移動に際してロッキー山脈が隆起した際に海の水が蒸発してしまったため、この高所に砂丘ができたと言われているのだけれど、今まで見た砂丘は砂漠地帯だったり海や湖の近くにあったことを考えると風景として全く新しいものだと感じた。この場所にたどり着いた頃にはちょうど夕焼けになり、日が落ちかけているところだった。道の脇から鹿が急に飛び出してくるのでたまにブレーキを踏みながら、ゆっくりとこの砂丘に近づいていった。遠くから見ると砂丘が山の一部になっているように見えるのだけれど、近づくに連れてその砂丘の山の高さが自分の認識を遥かに超えていることに気がつく。あんなに近くに見える砂丘の頂上がなんと遠いことか。歩いても歩いても全くその頂上にたどり着ける気がしない。雪解け水でできた、小さな川を跨ぎ、上がったテンションに任せて勢いよく走り出すがすぐに息切れを起こす。風の音以外なにも聞こえず、自分の声もどこにも響かない。こんな広い場所に本当に自分1人しかいないということが嬉しくもあり、と同時にものすごく怖くなる。なんならもしもう少し奥の方まで歩いてしまっていたら、帰りには遭難してしまうかもしれないと思えるくらい途方もない広さをしていた。暫く動かずにぼーっとしていると、自分の足元がどんどんと砂に埋められていくと自分が砂の中に溶け込むような気がしてくる。砂丘の描き出す陰影は太陽の傾きで刻一刻と形を変える。自分の影も徐々に長くなる。暫く赤く燃える夕陽が沈みきるまで砂丘の稜線に腰を下ろしてその風景を眺めた。周りには赤々としたロッキー山脈と、ピンク色に輝く広大な砂丘が広がっていた。空に星が見え始める頃になると風景は一変する。青白く佇む砂漠は綺麗なことこの上なかったが、それと同じくらい恐怖感を感じる。自分の付けた足跡が全て消え、星や月が冷たく輝き、暖かかった風が凍えるほどに寒く感じる。それは自分がこれまでに見たことがない人智を超えた光景で、この凄さを形容する言葉を自分は持ち合わせていなかった。アメリカに来てからも、日本でもいくつか砂丘は見てきたしそのどれもが心にいつまでも残る美しさを持っていたけれど、このコロラド州のグレートサンドデューンナショナルモニュメントほど畏怖感を感じるものはなかった。人の営みと言うものがどれほど小さいものなのかということを感覚的に、そして一瞬のうちに理解させるような力があった。その光景を背にし、冷たい砂の感触を足に感じながら車へと戻った。暫く虚脱感で動くことが出来ず、遠くから何度もその砂丘の大きさを見返していた。この光景は一生忘れないだろうと思う。
アルマローサという少し小洒落た雰囲気のあるスモールタウンでモーテルを取り、晩御飯には久々にきちんとしたレストランでご飯を食べることにした。アジア料理屋で食べた辛いフォーは砂漠で冷たくなった身体を内側から温めてくれたし、モーテルのベッドはこれまでの疲れを癒やしてくれそうな気がした。モーテルの外で煙草を吸っているとカジュアルに「ワックスいる?」と言いながら女の子が近づいてわかったけれど、コロラド州はマリファナがどうやら合法らしい。そりゃあこれくらい素晴らしい自然に囲まれていたら吸いたくなる気持ちもわかる。自分で持ってきた煙草を数本吸い終わったところで部屋に戻り、久々にゆっくりとテレビを見ながら今日あったことを思い返す。やはり、砂丘は魂を吸い取られるような気がして消耗する。そのせいもあってか一瞬で眠ることができた。