SEE EVERYTHING ONCE / TRIP TO SOUTHERN DAY3
この日最初の目的地はフランク・ロイド・ライト建築のマリン郡庁舎。この建築はサンフランシスコから北に車で一時間ほどの距離にある。朝、モーテルの駐車場からたくさんの車が消えていることに気づく。昨晩モーテルを何件か当たってみたのだけれどどこも満杯だった。それはカリフォルニアで起きた大規模な山火事の鎮火作業に当たる人たちがカリフォルニア北部のモーテルを軒並み利用しているかららしかった。彼らは僕らが起きて出発をする頃には、ナパバレーに広がる山火事に向かっていったのかもしれない。
シビックセンターはこれまで見たライトの建築物の中で一番腑に落ちたと個人的には思っている。というのも、アリゾナで見たタリアセン・ウエスト、ペンシルベニアでみた落水荘、いずれも素晴らしい建築だったけれど、それらの住居は既に一般の人々が利用できるものではなく、特定の人間にのみ開かれているものだったからだと思う。タリアセンで一番心に残っているのは、嗜好が凝らされたリビングや寝室ではなく、僕が入ることが叶わず窓ガラス越しに見た研究生たちの使うオフィスだった。建築は人が使うことを前提として作られたはずなのに、本棚に至るまで完璧に整えられ、調度品にも触れることも、座ったりもできないのであれば、その感覚は想像の域を出ない。その点、このマリン郡のシビックセンターは今なおたくさんの人に利用されているという意味において、生きた建築だと言うことができるのかもしれない。ものすごく広い駐車場にはびっしりと車が停まっていて、僕らが着いた頃には端の方しか空いていなかった。施設に入ると壁や天井がライトのよく使う赤茶色で、手すりや梁、窓枠、照明やタイルに至るまでの様々なディティールに彼らしい有機的なデザインが組み込まれていた。僕達のように観光で訪れている人もいるだろうが、大部分は職員の方々や手続きに訪れた市民の人たちであったように思う。大きく空いた天窓と、四階から地上まで見渡せる広々とした吹き抜けは気持ちがよい。館内の所々に植物が植え込んであるが、それが太陽の光を浴びて美しい緑色を輝かせている。ディティールに使われている金色、植物の緑、壁や床の赤茶色、そして天窓から見える空の青。これらの色は互いに補色として作用しあい美しい効果を生んでいる。食堂のメニューはどれも食堂と言うには高価な値段がするのだけれど、信じられないくらい美味しかった。と言っても僕が食べたのはポテトだけだったのだけれど、好みで言えばIn-N-Out Burgerのポテトと同等かそれ以上(つまり地球上でTOP3には入るということ)のものだったと思う。食堂には美しい中庭がついていて、噴水や、南国の植物が植えられていたりしていた。光のこもった食堂(おそらく人工的な光源を抑えている)からこの外を見ると、この中庭がカリフォルニアの陽光に包まれてとても明るく綺麗に見える。中庭からはこの建築の美しい屋根の稜線が一望できるし、何より眼下に広がる周囲の自然や町並みを見下ろすことができる。最上階の端には小さな円形の図書室があり、細かな調度品に至るまで嗜好が凝らされていて居心地がいい。何よりこの食堂にも図書室にも人の動きや流れがあり、いい意味で整いきってないことが自分にとっては意味があった。
その後、ゴールデン・ゲート・ブリッジを渡りサンフランシスコへと向かう。当然BGMはフルハウスのテーマ。爆音で曲をかけてみんなで歌いながら橋を渡る。よもや自分が車でこの橋を渡る瞬間が来るとは全く思っていなかった。自分ひとりであればもう少し空いてるルートを通っただろうし、サンフランシスコに行こうとも思わなかったかもしれない。橋を渡る最中はフルハウスのオープニングのように上空から車を見下ろしているような気さえしていた。あまりに興奮しすぎてこの橋がどのような見た目であったか全く覚えていないのだけれど、とにかく楽しかった。
サンフランシスコに来た目的はSFMoMAで開催されていたウォーカー・エバンスの個展だった。去年の年末にも来たので人生二度目の来訪になる。今回はこの美術館に一日全てをかけることはできないのでエバンスの展示にのみ焦点を絞り重点的に観察していく。今回ここに来てよかったと思うのは、これまで見たことがない彼の写真、及び映像を数多く見れたこと、そしてそれらが自分に対して新しい気づきを与えてくれたことだった。彼は世界的な写真家として名を知られているが、その彼がどのようにして写真というものに向き合い、撮影をしているのかを考えることができた。こうして世に名の知られる写真家への向き合い方として「彼は天才である」という認識を持つのは正しいと同時に大きな過ちであると今回の写真展を通して思った。なぜ過ちであるかと言えば、そう言ってしまうことによって解釈することを放棄し、自分と彼の間に永遠に埋まることのない隔たりを作ってしまうからだ。構図の作り方やプリント技術については確かに超一級であることは疑いようがない、しかし彼の写真の本質はそうした表面的な「クオリティ」にはなく、深い意味で感情が作用していることに価値があると考えるようになった。それは彼が構図を探すための時間や被写体を探すのにかける時間に現れる。私たちは写真を見る際にあたかもそれが彼の天才性によって瞬時に生成されたと思ってしまいがちなのだけれど、彼のしていることはその実ものすごく私的で泥臭い。彼の部屋の写真も展示されていたのだけれど、彼の萬集していたものは彼の写真に写されているそれでしかない。そして彼の素晴らしい構図や、決定的瞬間と思われる写真たちも偶然に撮られたものではなく、時には街を、あるいはこの広いアメリカという国中を歩き回りシャッターシャンスを探す。時にはひたすら待ち、人やものが自分の思い描く構図にはまるまで、もしくは自分の決めた構図に人が入り込んでくる瞬間を狙って何時間でも待ったりもしていた。フィルムメーカーからフィルムを、国から資金の支援を受けていた彼は、持っている時間もフィルムの数も私達とは到底比べ物にならないところにいる。才人が自分の好きなものをひたすらに追いかけ回せる状態にしたことは、彼の才能をより伸ばしていったに違いない。また、彼の撮っていたのものの中で、彼に親しい人たちのポラロイドによるポートレートがあったのだけれど、それは非常に彼の本質を表していると感じた。私達が知っているエバンスの写真はアメリカらしい風景、例えば農具や家並みだったりする。ポートレイトも撮ってはいるがそれは記録的な意味合い、ドキュメンタリーの側面が強い。しかしこのポラロイドからは記録的な側面と同時に記憶に残しておきたいという彼自身の意志(それはおそらく愛とも言えるものだと思う)が感じられる。このカメラを手にした当時、彼は齢70を超え、病気により衰弱していたと解説には書いてあった。その中でもカメラを手にしていたことと、そうして撮られたものの中に風景に混じりながら親しい人たちのポートレイトがあるのだとしたら、それは感情的な作用がもたらしたものなのではないだろうか。そして展示会の最後には、写真を愛したエバンスが最後に撮り始めたものとして「写真を撮っている人たちの写真」を撮り始めたと、何枚かの実際の写真と共に紹介されていた。これは表現として最も純度が高いものだと僕の経験上感じるところがある。それは映画を心から愛している人間は映画を撮ること自体を映画にするという入れ子構造によってその愛を表現してきたからだ。映画を撮ること、それ自体が人生となり得る人間にとっては、映画を撮るということ自体が作品として成立しうる、それはトリュフォーの『アメリカの夜』やアサイヤスの『イルマ・ヴェップ』に見て取れる。映画が好きな人間は映画に同一化していくことは自然に思われるし、写真が好きな人間は写真に同一化していくことも同様に自然と思われるが、これを成し得る人間は多くない。写真表現において見られるのは、写真を利用して自分の内面を表現すること、言い換えるならば写真にして「私を見ろ」と言わせることだと思う。しかしながら彼の写真はどこまで見ていっても「写真」もしくは「写真を見てくれ」である。よく写真は「記憶と記録」という言葉で表されるが、彼の場合、記録と記憶が等号によって結ばれているように感じる。記録写真を見ても、彼自身の持つルーツと照らし合わせれば記憶しておきたい光景ともとれるし、記憶に残したいがためにとった写真も記録写真のような側面を持つ。そしてそれらの集合体として今回の展示を見てみれば、そうして残された写真群はそれ自体が大きな意味での「写真」であり、ウォーカー・エバンスという一人の写真を愛する人間の魂のように思えてくる。そういった意味で、一人の写真好きの人間としては、写真に対して真摯に愛を持って向き合ってきた彼自身の作品を愛さずにはいられないし、彼のようにひたむきに写真というものに向き合っていきたいと強く思った。
サンフランシスコから出て、スコットクリークという名前のビーチでいったん休憩を取る。この日の夕焼けもまた美しい海岸線で見ることが出来たことを本当に嬉しく思った。11月になり既に秋も深まってきた時期だけあって、カリフォルニアの暖かい気候と言えど潮風は冷たかった。そのまま宿泊する予定のモーテルへと行き、荷物を下ろす。その隣にはダイナーがあり、その名前を見た瞬間にこの日の夕食は決まった。グランマズキッチンという看板を掲げたこの店は、地元の人々に愛されるローカルな食堂だった。そういう意味では僕達にとっては限りなく理想に近いダイナーだった。肉が大好きです、と言わんばかりの大柄の金髪のお姉さんのざっくりとした接客。何年も前から変わっていなさそうなメニュー表、いい具合に疲れた色合いのブルーの椅子やソファ。暗めの店内。そしてこれまたざっくりとした味付けのフライや炒め物、そしてグレービーソース。コーヒーもいい具合に味が薄くて最高だった。奥では近所の人たちと思われるお客さんが8人くらいで小さなディナーパーティーのようなものをやっていて、ときどき賑やかな声が聞こえた。店内の隅にあった小さなテレビではドジャースのワールドシリーズの準決勝がやっていて、自分たちが今カリフォルニアに来ていることを実感させられる。こうしてロードトリップをしながらダイナーに入って、コーヒーを飲んだりバサバサのチキンフライを食べたりするのは僕達が長年夢に見てきたことではなかっただろうか。言わずもがな、間違いなくそうなのだろうけれど、そんなことを言葉に出して確認する必要もなかった。なぜなら、その時は全員無心で目の前にある大量の食材を胃に流し込むことに集中していたから。