ESSAYS IN IDLENESS

 

 

SEE EVERYTHING ONCE -DAY25- 

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オハイオ南部からインディアナ州をまっすぐ走り抜けイリノイ州南部へ。広大な地平線を埋め尽くす畑と、先が見えないほど長い真っ直ぐの道。死ぬほど広く青い空、そして焼けるような暑さ。摂氏94度。どこまでいっても自分しかいなくい気持ちのいい空間をひたすらに駆け抜ける。ハンドルを離してもたぶん事故はおきなさそうだった。農村の美しさを感じるのはこういう天気のときで、自然の持つそのものの色に風化した木造小屋やペンキのはげた小さな家のコントラストは見ていて全く飽きることはない。

イリノイ州の南部には僕達の青春の全てとも言ってもいい場所がある。それはAmerican footballというバンドの1stアルバムのジャケットに使われている、なんの変哲もない家がある場所だ。世界中のエモキッズの聖地として(たぶんそうだとおもう)崇められるその場所にはいつか行かなければならないと思っていたのだけれど、今日がその日になる。シャンペーンという名前のその街は学生街で、落ち着いた町並みだった。雰囲気としてはシカゴ近郊にあったオーパークの雰囲気に似ていた。自転車に乗る若者はテキストブックが入っているであろう膨らんだバックパックを背負い、木立の影が覆い尽くす涼し気な道を颯爽と駆けていく。女子生徒と思しき人達は須らくカラフルなホットパンツを履いていて、高いサドルから垂れる長くて白い足が綺麗だった。その街のある一区画にその家はあって、本当に普通の家でしかなかった。一瞬ここが本当にその場所なのかと疑問に思い、あたりをぐるぐると回っていると中から誰かがこちらに向かって手を振ってきた。それは施工業者のお兄さんだった。どうやらこの家は既に誰も住んでいなくて売りにだされていた。

アメリカンフットボール(以下アメフト)を初めて知ったのは大学のおそらく2年生のときで、浅倉という音楽オタクから借りたCDによってだった。そこから90’sエモバンドにハマりだし、Cap’n Jazz、Owen、Joan of Arc、Owls、The Promise Ring、Make Believeといったキンセラファミリーの音楽に没頭していくことになる。もちろんポートランドにJoan of Arcが来たときには行ってみたし、何より2014年にアメフトが活動を再開したというニュースを聞いたときには浅倉や武知といった僕の大切な友人たちと命をかけてでも来日に行こうという決意をしたほどだった。大学のときにこのバンドを知った頃には既に活動を停止していて、フロントマンのマイク・キンセラはOwenとしての活動に集中している頃だった。2015年の来日の前に代表曲の一つである「Never Meant」のPVがPolyvinyl Recordsから出たときには何度も何度も繰り返し見た。彼が歌う曲の全ては僕達の青春の価値観の全てだったし、その歌詞は正義でありもはや法ですらあったのかもしれない。このPVにはもちろん僕の見たこの何の変哲もない家が登場していて、このPVに映る光景はー例えば美しい長髪のブロンドの彼女、アメリカ式のガスコンロや冷蔵庫、広々とした草原にシートを敷いて日が沈むまで彼女と抱き合ったり、車で夜の街を駆け抜けたり、たくさんの友達を呼んで素敵な音楽のかかるホームパーティをしたり(二人でパーティを抜け出してキスをしてみたり!)、二人でポラロイド写真を撮ってみたり、思いでのCDを玄関先に置いたり、、、ー 僕が体験したことのない、何も失っていないのに喪失したように思える、僕達が憧れる風景の全てであったように思える。そしてその感覚は僕の周り全員と寸分違わず共有されていて、彼らの音楽を聞くといつだって何度でも同じようなセンチメンタリズムを感じることが出来た。初めて会った人とだって、アメフトが好きだと言う人がいたら絶対友達になれるような気がしていたし、実際にそうだった。だから2015年のライブは本当に見れてよかったし、実際にとても感動した。最前で見たマイク・キンセラは本当に嫌な奴っぽかったけれど最高に格好良かった。だから、この場所に来れたことを本当に自分では誇らしく思えるし、来れることが良かったと思う。アメリカ旅行においてどのルートからも外れたこの街には、この時このタイミングでしか立ち寄れないと思う。だからきっと僕はこの街にいつかこれる運命を持っていたのだと思う。ひとしきり写真の角度を調整しながら写真を撮り、満足してこの街をあとにした。

そのままアイオワ州へと入る。その風景はデヴィッド・リンチの『ストレイトストーリー』そのままで、今まさに芝刈り機であのおじいちゃんがとろとろとこの道を進んでいてもおかしくなかった。イリノイ州にせっかく来たのでルート66を北上してみることにした。距離的にも時間的にも大きなロスになるのだけれど、ここまで来てこの道を通らないという選択はロードトリップにおいては出来ない。スプリングフィールドはリンカーンの生まれた街ということもあり、近づくにつれてそのことを示唆するサインが頻繁に見られるようになる。実際のところ、この街はかなり危ない街で犯罪発生率が高い。行くならば日の暮れないうちに行かなければならない。リンカーンには目もくれず、街の中を走るルート66をそのまま北上する。その途中、いい感じのネオンサインで「Sunrise Donuts」と書かれた店を見つけたので入って見ることにした。ドーナツという文字を見つけるとなぜだかお腹が空いてしまう。入ってみると店員はメキシカンで壁に書かれたメニューを見てもどうやらここではドーナツは売っていなさそうだった。店員に聞いてみると「ネオンサインはヒストリックだから残しているだけで、実はここはメキシカンダイナーなんだ」とのこと。ここに入ったのも何かの縁と思い、店員のおすすめするメキシカンを注文してみた。付け合せで出て来るチップスが美味しかったのでぱくついていると、あとから来た料理の大きさに目を丸くした。$10足らずなのに直径30cmくらいの更に山ほど盛られた大きなケサディーヤ風の料理はおやつと言うには多すぎる量で、限界を超えた満腹感に苛まれてその後の運転が危ぶまれた。

足早にルート66を北上しながら、沈んでゆく夕日を背中に受ける。街が赤く染まって、空は青とピンクだった。ただの道がなぜこんなに綺麗なのかと何度見ても思う。日が沈むまでの間にルート66上のいくつかのスモールタウンに立ち寄り、誰もいないダイナーやグロサリーストアの廃れた雰囲気を味わう。昔の姿を出来る限り残そうと務められた街の姿は見ていて感動的で、自分が2017年に生きているということを少しだけ忘れさせてくれるような気がした。ショアやロバート・フランクもきっとこのあたりを通って写真を撮ったに違いなくて、その光景が形が変わっていたとしても大きくは失われていないということは僕にとっては幸せなことだった。それは僕にとってのロードトリップの本質であるような気がしてならない。イリノイ州に入ってから、変わった標識を見かけるようになった。僕はそれをロードサイドポエムと呼んでいたのだけれど、例えば「Roses are red, my guns are blue」にようなものだった。そういうものを見ていると、ここが銃規制反対を表明した地域であることを否応なく意識させられると同時にそのポエムのわけの分からなさに笑いがこみ上げてくる。そういったささやかな楽しみも、旅の断片としていつまでも記憶に残るのだろう。

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祖父の遺品を整理していると、一番新しい日記を見つけた。一番新しい日付は1月28日、祖父が入院をした日だった。祖父がなくなる10日前と言えば衰弱仕切っていたし、ほぼベッドに横たわる以外にはできることがなかったはずだったが、祖父はその日一日一日の僅かな違いを日記に記していた。もっと若い頃は文章として記録されていた日記は、箇条書きの短文によって書かれるようになっていた。その内容は祖父が考えたことやその日の出来事ではなく、ラジオやニュースによって流れてきた情報のメモだったり、例年の季節柄のことだったりした(例えば確定申告のことだとか)。手の震えがひどかった日の日記は全く読めないものだったけれど、その日記を書くという行為自体に意味と意志が乗り移っているかのように思えた。折に触れて思うけれど、こうした日常の断片の記録こそが最も尊いものであり、美しい。ジョナス・メカスの日記や、マーク・コザレクの歌詞のように、その日にあったことを記録していくこととそれらを蓄積させることに勝る表現というものは存在し得ないのではないかとも思える。幾重にも重なった記憶の集積を眺めていると、それらがフィルターになって、自分が濾過されていくような気持ちよさすら感じられる。僕の祖父が長年続けてきたこの行為も、きっと彼らの作品と同じように僕の心に残り続けるのだろうと思う。

hiroshi ujiietravel