Try to Squeeze a Drop of Blood
2018年。一体どうなっているのだろうか。4月に働き始めてからあっという間に7ヶ月が経とうとしている。このブログを読み返す限りにおいては、自分の歩みが止まってしまっていることを自覚せざるを得ない。2017年は間違いなく人生で最高の一年だっただけに、そのギャップの大きさに自分でも驚く。
何かをしなければ、何かを吐き出さなければという焦りばかりが自分自身を苦しめている。忙しすぎて自分のことを振り返る時間がない。季節を感じることも、どこかに出かけようと思うことも、何かを買おうと思うことも、映画を見に行くとも、本を読むこともできていない。仕事に直向きになることは決して悪いことではないのかも知れないけれど、こうして人は消耗していくのだろう。富士そばやゆで太郎の季節メニューで感じる季節、ろくに見れもしない、週に一度追加されるNetflixのドラマの最新話。機械的で無味乾燥とした日々は決して心を潤すことはない。笑い話として同僚にそのことを話して強がってはいるものの、空洞になった心に自分の声が響いて悲しくなるだけだったりする。家具を買いに出かけたり、アメリカで撮った写真を印刷したり、家に飾ったりしてみようと思うけれど、その時間が取れないままに、もうアメリカから帰ってきて一年が経とうとしている。時の流れが加速している。
Instagramを見れば、友達が旅行にでかけたりしながら、それぞれの大切な時間を過ごしてることがわかる。素敵な出会いや、かけがえのない瞬間がもしかするとそこにあるのかも知れない。かたや自分はというと、コインランドリーと自宅、そして会社の往復で2018年の90%になる。一番つらいのは、友達と会う時間があまり取れなくなってしまったこと。僕に時間がないことを承知で、時間がなくても会ってくれる、会おうとしてくれる、誘ってくれる、気にかけてくれる友達がいるというのは本当に幸せなことだと思う。
自分を駆り立てるものは大きく2つある、ということにも気がついた。一つは欲望、そしてもう一つは不安。どこかに行きたい、旅がしたい、というのは欲望で、仕事をしなければというのは不安。不安は欲望よりも自分にとっては強い感情なのだろうということもわかった。自分が欲に率直に生きることを望むのであれば、何かしらの方法でこの不安を取り除かなければいけない。しかしながら、どのようにしてこの不安を取り除けばよいのか全くわからない。不安から逃げることはできない。先送りにすることしかできない。不安とはどこにでもつきまとって追いかけてくる。欲望というのは忘れてしまうのが簡単で、すぐに手放すことができてしまう。
そんな折に、家で久々にYo La Tengoの昔の曲を聞いた。ライブに行けなかった小さな腹いせでもある。『I Can Hear the Heart beating As One』や『Electr-O-Pura』といった往年の名盤を聞いていると、自分が大学生だった頃のこと、もっと正確に言うとするならば音楽にのめり込むまさにその瞬間のことを思い出す。『Sugarcube』のイントロを聞いて一瞬で持っていかれた時の感覚、ヘッドホンをしながら川沿いを歩いて何度も同じ曲を聞き直した時の景色。いつになっても色褪せないその曲はやはり自分の中では格別に大切なものだということに気がついた。歳をとるに連れて、新しい音楽や映画に対して興味がなくなると人はよく言う。それはもっと大切なものが増えたからか、時間がないか。はたまた、過去自分を救ってくれたものにすがりつくしかないからだろうか?昔好きだった曲を聞いていると、にわかに心が安らぎもう少しだけ頑張れそうな気がしてくる。そして机に向かい少し作業を始めると、それが幻想だったことがわかる。そしてもう一曲、もう一曲、、と続けているうちにいつの間にか時間が経って、一日が終わっている。
逃げ出したくて近所を散歩し、またすぐに部屋に戻ってくる。タバコはすぐになくなる。戻りしなポストを覗くと東欧を旅行していた友達からのポストカードが2通投函されていた。そこにある手触りのある文章を読んでいると、なぜだかわからないが涙が出てしまう。旅は自分のためにするものだけれど、誰かのためにもなる。自分で昔書いた文章を思い出した。もし、この文章を読んでいる人がいてくれて、その人が素敵な旅や、素敵な出会いがあったのだとしたらそのことを、次に会ったときに話して欲しい。