ESSAYS IN IDLENESS

 

 

HOMETOWN 2018

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兄がついに婚約を決めたらしい。アメリカから帰ってきて一年ぶりにあった母親からいの一番でそう告げられた。とてもめでたい。兄の家には何度も遊びに行っているし、兄と一緒に暮らしていた時も兄の婚約者は何度も家に来ていたから、すごく嬉しいというよりも、友達同士が結婚するような暖かい気持ちになった。これから結婚式の御祝儀を渡すために必死に働かないといけないな、と母親に冗談(半分本気)を言った。


ただ、時の流れというのは残酷で、いつも変わらないと思っていた家族の形を良くも悪くも変えてしまう。今回はとりわけその落差が激しかった。祖父が末期の癌にかかっていることを告げられる。毎年会う度に「これで最後になるかもしれないなぁ」という祖父の言葉を聞き続けてもう10年くらい経つ気がしていたけれど、どうやら今回は本当になってしまうようだ。「早く婆さんのところにいきたい」と爺さんが言うようになったのは12年前の僕の誕生日、4月6日に僕の祖母が亡くなってからだと思う。医療設備が整っていない昭和の中頃、使いまわされた注射針によって不治の病であるC型肝炎に若くしてかかってしまった祖母は長い長い闘病生活の末に12年前に亡くなった。病気といえどもそんな素振りも見せずに料理を作ったり、絵を書いたり、裁縫や編み物をしたり、旅行をして、人生を最後まで生き抜いた祖母のことを祖父は大変誇りに思っていただろうし、尊敬し、愛していたと思う。祖父は戦争時代の人間だから、とても意志が強い。なにがあっても弱音も吐かないし、人のことを頼ろうとしない。頑なに自分の姿勢を崩さない。祖父を形容する言葉はいくつもあるけれど、うちの家族ならば絶対に意志の強さを最初に挙げるだろう。15年以上ほど前、体調を崩した時にドクターストップがかかり、大好きだった晩酌と(日本酒の熱燗)と煙草をピタリと止め、それ以来一度も口にしていない。クローゼットの中の衣類は全て向きが揃っていて、その衣類は全て何十年も前から着ているもので、新しい服や物を一切買わない。パスタや餃子など、日本食でないものは一切口にしなかった(たとえ孫の自分が作ったものでさえ)。その祖父が唯一心の拠り所にしていたのが祖母だった。祖母がなくなってからと言うもの、祖父のそれまでの意志の強さは影を潜め、自室の窓際に置かれた椅子に座って外を眺める日が多くなっていった。母はそれまで続けていた仕事をやめ、一人残された祖父の面倒を見るようになった。祖父は母親に励まされながら、弱る身体を少しでも鍛えるために散歩に出るようになった。意志の強い祖父はその散歩の習慣をかなりの期間、毎日欠かさずに行っていた。足がさらに弱ってからは杖を携えながら、毎日歩いた。しかし数年前からベッドの上で横たわりながらラジオを聞いたりする姿を多く見かけるようになり、おそらく3年ほど前から散歩にでる習慣はついになくなってしまった。祖父の心は弱りきっていた。食事と風呂に入るとき以外は自室からでることはなくなり、部屋にこもりきって一人で過ごす時間が増えた。家の外に出ることもほとんどなくなった。それでも、孫である僕や兄が実家に帰ったときにはベッドから起き上がり、出迎えの挨拶をしに来てくれる姿だけは変わらなかった。滅多に笑うことのない(祖母がなくなってからは本当に笑うことはなくなった)祖父が笑顔を見せる瞬間だった。今年は、お土産にあげたニットキャップを自慢げに被って、僕に挨拶をしに来てくれた。

「浩史が心配するから言えなかったんだけど、お爺ちゃん、膵臓がんになってしまったみたい」と母が僕に告げる。僕はその事実を聴いた瞬間に母親の顔から眼をそむける。膵臓がんは癌の中でも特に見つけにくく、見つかったときには既に末期であること、そして痛みの激しい癌であることは知っていた。そしてプライドの高い祖父は延命治療をそもそも望んでいないであろうことは容易に想像がついたからだ。淡々と母の口から告げられるここ一年の祖父の様子を聴いている時に自分ができたことは、悲しみを悟られないように自分の心と感情を切り離そうとすることだけだった。

ある日、母が祖父の気分転換のために山菜採りに行った時のこと。なんということのない斜面で祖父は転んで背中から転倒した。地面に強めに頭を打ってしまったため、母は山菜採りを切り上げて急いで車で家に向かった。その時は七ヶ宿町という山間の町にいたらしいのだけれど、祖父は車窓を眺めながら、生まれ故郷の海沿いの街にある「女川コバルトライン」という眺めの良い道路のことをとしきりにつぶやいていたらしい。女川町には僕も何度も祖父と幼少期に釣りに出かけたことがあり、震災で全てが流されてしまうまではとても美しい港町であることは知っていた。記憶が錯綜し、身体が弱ってから十数年も訪れていない生まれ故郷の光景を思い出していた祖父の様子は、母親にとっても何かの暗示のように思えたらしい。それ以降、母は何かにつけて祖父の死が近づいていることをより強く感じるようになった。祖父が身体を起こしていることが辛くなってしまってからは、床屋にいくこともなくなった。一時間も椅子に座っていることは祖父にとって大変な負担になりえる。そのため母が祖父の髪を切るようになった。切った祖父の白髪が母の手から風にながされて行くのを感じるたび、それが祖父の命のように思えてならなかったと母は言った。膵臓がんの症状として、極端な体重減少と食欲減退があげられる。それまで70キロ以上もあった祖父の身体は今では52キロしかなく、お茶碗に盛られたご飯は一口分ほどしかない。そのため、祖父の身体は異常な程にやせ細っていて、そんな祖父に対して母が髪を洗ってあげる度に「骸骨を撫でているような気持ちになる」と僕に言った。毎年会う度に「これで最後になるかもなぁ」という祖父の言葉をなんとも言えない表情で流してきたけれど、母の語るエピソードを聞くに連れて、もう来年同じ言葉をきけることはないだろうという予感が確信に変わっていった。

母の話を聴いていると、祖父との思い出が勝手に頭の中に溢れてくる。幼少期に毎日、田圃道を手を繋いで歩いていたこと。保育園に送り迎えをしてくれたこと。女川に釣りにでかけたこと、餌の付け方や魚のいる場所を教えてもらったこと。一緒に雑木林にきのこを取りにいったこと。毎週図書館に歴史小説を借りにいく祖父についていったこと。大相撲を一緒にテレビでみていたこと(この頃は武蔵丸や曙が全盛だった)。保育園の時にひらがなやカタカナ、漢字で自分の名前の書き方を教えてもらったこと。小学生の時に将棋や囲碁の打ち方を教えてもらって、学校から帰った後によく勝負をしていたこと(もちろん飛車角落ちだったり、置石だったりした)。祖父の晩酌のお供のマグロの刺身を毎日もらいに行っていたこと。僕の父に対する愚痴をよく言っていた愚痴や、よく祖父が話していた海軍士官学校の話や、通信教育で教員免許を取り、死に物狂いで頑張って生まれ故郷の中学校の校長先生にまでなったこと。そしてその話はいつも帰省する度に必ずされること。こっそり僕の部屋に来ては、母に内緒でお小遣いと手紙をくれたこと。そして毎日茶の間のこたつで読めないほどに崩れた字で分厚い日記帳に日記を書き続けていること。

僕は自他共に認めるおじいちゃん子で、幼少期の多くの時間をこの祖父と過ごしてきた。共働きの両親に代わり、祖父母が僕の面倒を見ていた。僕は両親には性質も容姿もそこまで似ていないのだけれど、祖父にはよく似ていると両親に言われる。それは頑固で融通が効かない、人の話に耳を傾けないところを指してそう言われる場合もあるし、決めたことはやりきるという意志の強さを指してそういう場合もある。だから祖父と自分の中に通じるものがあると常に感じていたし、自分の人間性を省みるときには祖父の顔が浮かんだりしていた。そんな祖父が近い将来、いなくなってしまうということがとても悲しい。そして祖父は自分が癌であることを知らない。だから、日に日に増える痛み止めをどんな薬かもわからないままに飲んでいる。もしこれ以上の痛みが出てきた場合には、モルヒネなどの投与が必要になるらしいけれど、その時初めて祖父は自分の身体が癌に侵されていることに気づくのかも知れない。もしかしたら自分の身体の異変には既に気付いているのかもしれないけれど。

現代の医療方針では、患者に余命を伝えることはしない傾向にあるそうだ。だから母も、僕も、兄も、父も、家族の誰も祖父がどれくらい生きられるのか知らない。ただ、「長くはない」ことだけがわかっているけれど、それがどれくらいなのかはわからない。4月10日は祖父の誕生日だ。できることならば、4月6日の僕の誕生日、そして祖母の命日、4月10の祖父の誕生日が悲しくならないことを願う。正月に婚約者と帰省した兄は「春になったらおじいちゃんの誕生日を祝いに戻ってきます」と書いた手紙を残し、東京へと戻っていった。

hiroshi ujiieday