DAYS IN TOKYO
東京駅へ到着してから代田橋への移動中、既に自分は電車の乗り方も危うくなっていることに気づく。人の多さや改札と駅構内の複雑さに辟易し、新宿駅を30分以上はさまよっていたと思う。電車の乗り降りや改札をめがけて歩いてくる人の流れはまさに町田康が叫び散らすほどの人の海。大きな荷物を持って乗り込むことなんて到底無理なんじゃないかと思うほどの乗車率。お正月も明けたばかりだと言うのに駅から溢れ出るスーツの人たち。この冷めきった熱狂が東京の空気だったんだと思い出す。言ってしまえばこの人々の隙間を埋めているのはストレスや不快感にほかならず、視線の逃げ場を探して目を泳がせれば電車の無機質な蛍光灯に照らされた馬鹿馬鹿しい広告をずっと眺めて安堵していることにも気づくだろう。こうしたストレスから逃れるために自分自身の感覚をふさぎ込むしかなく、安心できる場所を求めてすぐに家に帰りたくなってしまう。東京は便利な街だけれど、妙に忙しくそわそわしてしまうのはこの居場所の無さに起因しているような気がしていた。
都会の人たちはみなお互いに無関心だといわれるけれど、それは自分が東京という街を客観的に眺めた時に改めて気付くことができた。そしてその原因は自分自身が東京に対して無関心だということだった。今の僕は海外の経験とこの東京の街を比べてみることができるようになったと思っている。そして、海外と比べ日本には自分が求めている風景や人たちが少ない、少なくとも自分が興味を持てる対象が少ない、もしくは非常に見つけにくいことに改めて気づいた。だから壁の色や、庭先に差し込む光、窓の汚れ、陽が当たって透き通るカーテンや、壁に記された誰かの粗末なタグとか、そうした微細な光景を目が追うようになった。ベランダに出てタバコを吸っていると、無機質な古い家屋の屋根が密集した代田橋の街が夕焼けに照らされていて、彩度の低い冬晴れの空と相まってきれいだとは思う。しかしそれを写真に収めたときに自分の望まないノイズが混じってしまうだろうということは容易に想像できて、結果カメラを手に取らない。そういうことが増えているうちにカメラは埃をかぶってしまうのだろうか?
街を歩いていると、NHKの社屋の前で「NHK社員の平均給与が高すぎる!」と下品なデモをしている人たちがいて(これはもうおなじみの光景だし、なんなら年末年始もやってた気がする。暇か。)、その前を「バ〜ニラ、バニラバ〜ニラ!高収入!」という更に下品なトラックが走り去っていったとき、呆れを通り越して思わず笑ってしまった。これが馴染み深い光景だと思うと悲しくなるどころか、逆に面白がれてしまうことがわかったのはせめてもの救いだった。やはり僕が東京にいる意味というのは、この街にいる素晴らしい友人たちでしかない。気軽に家に泊めてくれるやつ、夜遅くまでどうでもいい話をできる友達、タバコとコーヒーさえあれば何時間でも一緒に居られる関係であったり、自分を慕って話を聴いてくれる人だったり、話を聴いていると何か新しい発見や自分への肯定感が得られる人だったりするのだろう。という友達がいれば別に他には何もいらない。