TRIP TO TAIWAN -PENGHU / DAY11-
DAY11
早起きをして高雄空港へと向かい澎湖島への飛行機を待つ。出発ロビーは閑散としていて静かで心地がいい。こじんまりとした飛行機に乗り込むと、丁寧な安全器具のインストラクションが始まる。空から見る台湾の海と澎湖島を楽しみにしていたけれど、いつのまにか寝てしまって何も覚えていないし何も見れていない。空港に着き、ホテルの送迎バスを待つために外に出ると、その瞬間に強い風が僕に吹き付ける。ぶつかる、とでも言うような強い風で、あっという間にタバコは燃えるし帽子も飛ばされそうになる。待てども待てども来ないバスにしびれを切らしてホテルに電話をすると、もう空港には到着しているとのこと。そう思って改めてタクシー乗り場を見てみると、ニコニコしたおじさんがこちらに向かってくる。20分遅れだけれど、たった今ここについたらしい。どうやらこの島には厳密な台湾時間が流れているみたいだ。バスの遮光ガラス越しに見える澎湖島の景色はこれまで見た台湾のどの景色とも違っていた。車も建物も少なく、これまで見てきた街のひしめき合っている感じは殆どない。まばらに生える椰子の木と、古い建物たち、そしてその向こう側に見える海、そして窓ガラス越しに聞こえる風切音がこの街の風景なのかもしれない。
ホテルにチェックインを済ませたあとに、すぐにスクーターを借りに行く。レンタルバイク屋のおじさんはたどたどしい英語と抜群の笑顔で出迎えてくれた。お腹が減っていることに気がついたので、すこし街の中を歩いてみると意外にも発展していることに気づく。コンビニもあれば、おしゃれなカフェやお茶屋さんもある。ついでに言えば100円均一ショップのダイソーすら、街の交差点のど真ん中にある。僕の中では風櫃の少年の景色がこの街の景色だと思っていた節があるし、当時の風景がまだ残ったままであってほしいという願望があったことも事実で、この発見は僕にとっては少しだけショックだった。昼前ということもあり、田舎では開いている食堂を探す方が難しい、というかあとから気づいたがこの日は1月1日、つまるところ元旦で、こんな日に店に入ろうという方がどうかしていたのかもしれない。ただ結果から言えば、開いている食堂を見つける事ができたし、なんなら12時を回れば普通にどの店も開店していつもと変わらないであろう日常が流れていたと思う。食堂で適当に定食らしきものを頼むと、大盛りのご飯に豪快に鶏肉が乗ったものが出てきた。鶏肉の味付けは本島のものとは少しだけ違っていて、強めの酸味と甘味のある特徴的な味付けだった。付け合せの野菜も少し酸味が効いていて美味しい。地元の商店街らしき場所を歩いてみると、人口比率的に明らかにおかしいペースでカラオケ屋があることに気づく。この街の人たちはきっと歌うのが好きなのだろう。
初日の目的は風櫃の少年たちがいた場所、風櫃だ。スクーターで片道1時間弱くらいらしく、道は基本的にひたすら真っすぐ。澎湖島は三日月型をしているのだけれど、風櫃はその三日月型の下側の先端にある。(ちなみに島で一番大きな街は三日月型の湾曲した部分の内側にある) ホテルのそばの防波堤でスクーターの運転を3分くらい練習し、そのまま風櫃へと向かう。車通りの多めの町中を慎重に抜け、田舎道に入る。一気に建物の数は少なくなり見通しが良くなる。周りに建物がなくなるとこちらに吹き付ける風はそれまでの5倍くらいの強さになる。澎湖島の道路は島と島をつなぐようにはしっているのだけれど、その橋になる部分は特に風が強く、もはや暴風といっても過言ではない。スクーターも空気抵抗で全然進まなければ、目は風で乾ききってしまい涙が溢れてくる。息はしたくなくても口の中いっぱいに吹き込んでくるし、きつく被ったヘルメットは一瞬で脱げてしまう。このままスクーターごとどこかに飛ばされてしまうんじゃないかと思うくらい強い風だった。橋の上から見る海は透き通った青さで、空はどこまでも見渡せるほどに広く青い。雲はものすごいスピードで風に流されている。ゆったりとしたこの島の時間の流れの中で、雲だけがその何倍もの速さで時が流れているのではないかと思える。
風櫃へと向かう途中、建設途中なのか、途中で放棄されてしまったのかわからないけれど、コンクリートがむき出しになった建築物を見つける。中に入ってみると、そこで誰かが酒を飲んだり花火をした形跡があった。窓もなにもはめ込まれていないから、強い風はビルの中を真っ直ぐに抜けていく。そして、コンクリートの柱と梁で四角く切り取られた風景はまさに風櫃の少年で見た、ビルから世界を眺めるシーンと酷似していた(もちろん高さは足りないし、そもそもあのビルは高雄にあるのだけれど)。澎湖島の老街のあたりが遠くに見え、その手前には青い海が広がっている。そこから見える光景はある意味凡庸とも言えるのかもしれないけれど、自分にとっては何よりも特別な出会いだったと感じていた。この光景を目の当たりにしたのは偶然でしかないのだけれど、ある意味必然だったともどこかで思える、それくらいこの出会いは自分の中では完璧なものだったし、見つけた瞬間に映画のあのカットが想起されて、何が現実なのかわからなくなるくらい、映画の中に入り込んでいるように思えてならなかった。もしここで何かいうことがあるとするならば「大きなスクリーンだ!カラーだぞ!」なのは間違いないだろう。
そのまままっすぐな道を強い風に煽られながら進んでいく。風櫃の看板が見えてから5分ほど進むと、先ほどと似たような体験が自分に起きているのを感じる。ただ一度、スクリーンを通してほんの数秒だけしか見ていない光景に、いま自分がまさに同じ場所にいると100%以上の精度で確信をした。記憶の奥底、自分で思い出そうとしても思い出せないくらい深い場所に沈んでいたその光景は、自分が出会った景色によってこれ以上ないほどに輝きを放っていた。今まで忘れていたことが不思議なくらいに、その景色は自分に対して「ここだぞ!」と訴えかけてきて、また自分の頭の中からも「ここだ!」という声が聞こえてくるようだった。それは風櫃の街の入口のバス停で、映画の冒頭で少年たちが歩きながら通り過ぎるその一瞬だけ出てくる場所だった。これまで映画の撮影場所をいろいろと巡ってきたけれど、これほど強い確信を持てる場所もそうなかった。そしてその場所がなんの変哲もないバス停というのはなんだかおかしな話なのだけれど、これがきっと映画の成し得る魔法なのだろうと思う。
風櫃の海岸に出ると、僕の他にも何人かの観光客に出会う。奇妙な形の岩肌が有名らしいのだけれど、その岸壁を進んでいき海を眺めながら、写真を撮りあったり、静かに風の音を聴いている人たちを横目に見ていた。驚くのは、少なからずここから見える家並みが変わりつつあるということだった。日本の建売住宅のような外観の真新しい家もちらほら見えるし、その脇に三原色で彩られた遊具が置かれた小さな公園があったりする。時の流れは無常で、避けがたい。街の中に入っていくと車一台通れるかという細く、入り組んだ道が続く。だいぶ歩き回ったけれど、自転車に乗った少年以外とは誰とも出会っていない。波の音と風の音、海鳥の鳴く音以外は何も聞こえず、暖かい日差しと穏やかな空気だけがあたりに漂っていた。あの少年たちがかつて過ごしていたという家は空き家となっているがその雰囲気を色濃く残している。佇むようにしてならんでいる廟や伝統的な街並みは映画でみたものそのままで、細い路地を縫うように歩くたびに感動を覚えた。あの映画で撮られた空気は今も変わらず残っていることがとても嬉しかった。
スクーターで来た道を戻り街に戻る。その行ない自体が風櫃の少年のようだなと思うのだけれど、その流れで一つ行ってみたかった場所があった。泊まっているホテルからほど近い場所にこの島で唯一の映画館があり、その映画館こそが彼らが忍び込む映画館だった。夕ご飯を探しがてらに立ち寄ると、営業時間外で閉まってはいたが、いまでもその映画館は潰れずにそこにあった。中は見ることができなかったしどこから忍び込んだのかもわからなかったが(もしかしたら忍び込むシーンだけは別の場所なのかもしれないけれど)、台北や台南で見かけた映画館と同じように今やっている映画を当たり前のように上映しているようだった。映画の中では白黒のヨーロッパの映画が上映されていて、それをわけも分からず背伸びして眺める少年たちが印象的だった。もちろんこのシーンは映画の中で、ビルの窓から高雄を眺めるシーンと呼応していて、映画は白黒、現実はカラー。その対比を映画の中でやっているのは本当に素晴らしいのだけれど、欲を言うならば僕もこの映画館で映画を見てみたかったということだった。もちろん、だいぶ背伸びした古くて白黒でわけの分からないやつ。
澎湖島では夜遅くまでいろんなお店がやっていて、カフェの店先のテーブルでコーヒー片手にタバコを吸いながら談笑している若者を何人かみかける。台湾のお店はそういうパティオに向けて音楽を流しているお店もあり、なんて気の利いた店だろうと感心する。歩き回りすぎているうちに店がどんどんと閉まっていってしまい、最後に閉店ギリギリで滑り込んだ食堂で勧められるがままに麺料理を注文する。まったく意味の理解できない中国語の説明に頷くことしかできなかったけれど、結果的にいえば出てきた料理は最高においしかった。ホテルに帰ってベッドに横になり思う、今年の元旦は人生で一番特別だったと。そしてできるなら毎年こうしてゆっくりと喧騒から離れた場所で、素敵な時間を過ごしたいと思う。
-------------------
ついに祖父が入院となった。水すら自分で飲めなくなってしまったために衰弱が激しく、本人の意向に沿う形ではないが、病院に連れて行かざるを得なかった。そのまま入院になることはわかっていたから、汚れたパジャマと下着を着替えさせるのだけれど、黄疸で黄色くなった肌と、僕の腕ほどに細くなった足を見ると全く言葉にできない暗い気持ちになる。人が朽ちている。祖父は救急車が大嫌いなので、家族総出で寝ている祖父をその布団ごと持ち上げて車まで運ぶ。布団の中の祖父は苦しそうな表情でまったく動かない。なんだかその瞬間は自分が亡骸を運んでいるのではないかという気持ちにすらなる。近所の散歩をしている人たちにも哀れみと奇怪さの混じったような目で見られ、気恥ずかしいとも惨めとも違う、形容し難い悲しい気持ちになる。あの視線は、見てはいけないものを見てしまった哀れみの表情のように思えた。
この日記を書いている現在、僕は寝るためだけに使っていた客間から、祖父が使っていた部屋に移り住んでいる。それはもう祖父がここに二度と帰ってこないことを家の誰もが覚悟をしているということを示していた。祖父の部屋の入り口の直ぐ側の壁には真新しい穴が開いている。母親の話では、夜中にトイレに行こうとした際に転んで壁に向かって倒れてしまったそうだ。母が大きな音がしたので駆けつけると床に倒れる祖父がいたらしい。壁の穴は倒れた祖父の頭で開けられたものだ。もはや歩くことも立ち上がることも困難なのにどうしてトイレにいこうとするのか。あれほど何度も一人でトイレに行くなと言ったのに。人に格好の悪いところを見られることも頼ることも嫌だ、その偏屈で融通の効かないところも祖父の気高さの側面だから誰も祖父に何も言えない。ここ数日で祖父は部屋から歩いて2歩ほどの距離にあるトイレを使うことすらも諦め、部屋についている縁側から用を足すようになった。そしてそれすらもうまくいくことはなくなってしまった。だから、祖父が入院することになったその日の午前中、少しでも快適に過ごしてもらえるように介護用のトイレと手すりを買いに行き、祖父の横たわるベッドの脇に入念に位置を調整しながら設置した。結果的に言えば、そのトイレも手すりも使われることは一度もなかった。
病院に駆けつけると、個室に運び込まれた祖父の周りをたくさんの看護婦が運んでいるのが見えた。処置が終わるまで入室は制限され、その間に僕よりも若く見える研修医(その日は日曜だった)が病状の説明に来る。もちろん家族の誰もが知っていたことをただ淡々と述べられるだけなのだけれど、僕達家族はそれに対して頷くことと、お願いしますとしか言えないのだった。一度家に帰り祖父の身の回りの道具を揃えて持っていく。僕は祖父のベッドの脇のテーブルに置いてあった日記にペンをはさみ、カバンに入れた。病室で祖父の日記を枕元に置くと表情が明るくなり「ペンはあるのかい?」と聞いてきたので、「もちろん、日記に入っているよ」と答えた。おそらくこの日記は祖父自身によって書きたされることも、読み返されることもないだろう。ただ僕にとっては祖父がその日記を使ってくれることだけが唯一の希望(というにはあまりにも儚いのだけれど)だと思っていた。
翌日見舞いにいくと、祖父の身体には点滴と呼吸用のチューブがつけられていた。ベッドの下には離床マットが敷かれている。離床マットとは、患者が床に接地した時にナースコールが鳴るように設計された介護用品で、それはつまりこれだけ衰弱した祖父がまだ自分で立ってトイレに行こうとしたことを表していた。祖父の入った部屋は暖かくて、明るい冬の日差しが差し込む最上階の角部屋の個室だった。病院によくある冷たい無機的な印象はなく、むしろ暖かさすら感じた。明るく、優しい、死を待つための部屋だった。綺麗だった。
今生の別れになるかもしれないということで、無理やり福島に出張を入れた兄が週末にかけてやってきていたので、月曜の朝方に兄を連れて病院に見舞いにいった。長い沈黙が続く。「ひろくんは、彼女はいるのかい?」と、以前聞かれた質問が唯一、その日祖父が僕に話しかけてきたことだった。
「いるよ」
「どこにいるんだい?」
「東京だよ」
「結婚はするのかい?」
「それはまだわからないけど、いつか」
「そうか、結婚は早くしたほうがいいんだよ」
僕には彼女はいないし、結婚する予定もない。というよりも、いなくなったし、いなくなったことによってその予定も立てられないのだけれど、この時ほど彼女がいればだとか、結婚する相手がいてくれたらと思ったことはないと思う。もしこれが最後の会話になってしまったとしたらと考えると、咄嗟に嘘をつくことしかできず、罪悪感と後悔があった。真実を伝えるよりも遥かにいいだろう考えたからだけれど、この嘘は許されるものなのだろうか。今まさにその生を全うしようとする祖父が何よりも気にかけることが孫の結婚だということは、その行為の重みと、それによって得られる価値の大きさを表していると思うし、何より祖父の結婚生活というのは本当に素晴らしいものだったのだろうと改めて思う。
僕は今この日記を書きながら、祖父の使っていたラジオを使ってラジオを聴いている。くだらない深夜のラジオ番組が流れている。日記を書きながら、たまに縁側に出てタバコを吸っている。それは僕がまだ幼いころ、禁煙をする前の祖父がタバコを吸っているのを庭から眺めていた光景を思い出す。空を見上げるときれいな満月が雲に隠れながらもくっきりと明るく光っている。明日は月食が見れるらしい。母は満月の日は人が死んだり生まれたりするんだとオカルトチックなことを言っていた。いつもは母親の言っていることは信じないけれど、なんとなくそんな予感がするのは月が不気味なほど綺麗だったし、いろいろなことが重なり過ぎているからだろうと思う。