AMERICAN SURFACE
アメリカンサーフェースはショアがロバート・フランクへのあこがれを元に、彼の残した道筋を追って旅をした時の記録である。彼が旅したその時のその場所の記録。南部の州を中心に、数年の間に渡って、定期的に撮影されていて、ローカルなエリアや郊外なども撮っているがマイアミのパームビーチや彼の生まれ故郷であるニューヨークなど都市もかなり多く撮られていることがわかる。自分が旅をする前ために参考にしているのは、小説や写真、映画だ。ショアやエグルストン、エバンスやロバート・フランクなどの写真集で、そこに記録されている街の名前を一つ一つ調べて、地図に印を落としていく。そうすると、彼らがどこに行ったのかがわかると同時に、面白いくらいその経路やどの州が彼らの琴線に触れたのかがわかるような気がしてくる。都市部や南部諸州で撮影回数が多いのはきっとそのせいで、オレゴンやワシントンなど北西部の都市があまり出てこないのにも理由があるのだろう。アメリカの表面を題された写真集だけれど、それは決してアメリカの全てではない。同じようにロバート・フランクのアメリカンズも、ウォーカー・エバンスのアメリカンフォトグラフも、それ一冊でアメリカの全てを語っているわけではないのだと思う。別にここでどの州が撮られていないだとか、どの州も撮影するべきだったとか、そんなことを話すつもりは全くない。もしアメリカの全てを表現する写真集があったとしたらそれは図鑑であり、文字通りただの地図でしかないのかもしれない。今で言えばGoogle Mapということになってしまうだろう。アメリカをくまなく旅して写真に撮ることが目的なのではない。その中の一風景をカメラで切り取り、切り取られた膨大な瞬間の数々をつなぎ合わせて作られた彼ら自身の地図こそに価値があるのだと思う。長田弘さんがその著書の中で、ケルアックのオンザロードがアメリカの若者にとって血の通った地図だったと言った。それは僕にとっても同じで、更に言えば同じように自分が好きだった数々の本や写真こそが僕にとっての血の通った地図になるだろう。たとえ年月が全てを変え、彼らが見た風景がもうどこにも残っていないとしても、人々の装いが変わっていたとしても、自分にとっては価値があるものになると信じたい。もし、僕が誰かに自分の旅のことを話した時に、僕の作った地図が誰かの地図になったらそれは最高に嬉しいと感じられるに違いない。その地図を作る前にどうにか生き延びて戻ってきたいと願う。