CRATER LAKE
6月も終わりに近づいてきて、いい風が感じられる季節になってきた。そういう日の夕方には家のデッキに出て、煙草を吸いながら草木の擦れる音を聴いたり、本を読んだり、考え事をするのが最高に気持ちがいい。そんな折、ふと知人からキャンプの誘いを受けたので、何の考えも無しに二言目には了解した。目的地はオレゴン南部のクレーターレイクという湖。ポートランドから車で約5時間南に下ったところにあり、自然の美しさは全米屈指と言われるオレゴン州の中でも、一二を争う有名な場所だ。全米で一番の深さを誇るこの湖は597メートルの深さを誇ることと、その美しさから州内外からの観光客は年中絶えることはない。この湖の特殊さは湖の形成されかたにある。大昔に噴火した火山火口に雪解け水と雨水”のみ"がたまり、そのまま湖になっている。そのため湖の水がとてつもなく青く、途方も無いくらい美しい。晴れた日には空の色も反射し、まるで鏡のように見える。あまりの綺麗さに、おそらく魚も、その他の水生生物も棲めないないのではないかと思うほどだ。そんな素晴らしい湖の近くにキャンプができるなんて、何があったとしても断る理由なんて存在しない。
平日の朝早くからワシントン州のタコマからわざわざ迎えに来てくれたブランドンの車に乗り込み、目的地へと向かう。高速道路をただひたすら下っていく。陽気でメロウなBGMを聴きながらアメリカの田舎をドライブするのはいうまでもなく素晴らしい。途中途中のビュースポットで車を止めて一息つき、雪の残るカスケード山脈を眺め、道路脇に流れる青緑色に輝く川の音を聴く。ただ一つ小さな追突事故を起こしてしまったことを除けばとてもいいドライブだったと言えるだろう。
キャンプサイトに着き、手早くテントを設営する。椅子に座って一休みしていると近隣のキャンプ客が気さくに話しかけてくる。カリフォルニアやウィスコンシンからわざわざ来ているひともいれば、巨大なバスほどもあるトレーラーで乗り付けてくるアイダホ州から来たおじさんもいる。家族連れ、ペット連れ、孤独で哀愁漂うバイクツーリングのソロキャンプ。いろいろなキャンプのスタイルがあって、どれも飾らなくて素朴で、心がなごむ。昼間からビールを飲みながら豪快に肉を焼いてるおじさんのせいでお腹が減ってしまったので、焚き火でホットドッグを作って腹ごしらえを済ませる。キャンプで食べるご飯はなぜ適当に作っても最高に美味しいのか。特売のパンにソーセージを挟み、ハインツのケチャップとマスタードをかけただけなのだけれど、至高の逸品になってしまう。ホットドッグを満喫した後、クレーターレイクに向かい車を走らせる。だいぶゆっくりしてしまったので既に日が傾きかけてきている。陽の光が斜めに差し込むこの時間帯の山道は本当に美しい。山頂についた頃には雪の積もった火口の縁が赤く染まり始めていて、そこに吹く風は涼しいというよりも肌寒く感じるほどだった。それもそのはず、ここは標高が2500メートル近くもあり、未だに溶けない雪がそこらじゅうに積もっている。サンダルで来たことを後悔しながら、湖の見える火口際に慎重に近づいていく。(この火口際には落下防止の柵などは設けられておらず、毎年何人かの観光客が落下事故を起こしているらしい) 頂上から見える湖は完璧な青さで、一点の曇りもない。写真で見たものよりも更に青く、そして美しい。湖の青さが火口の内側に反射しているため地面ですら青く見える。波も立たず、まるで巨大な鏡のように静かに佇む湖は神々しさすら感じられた。空の青さも相まって、視界全てが青に満たされる。少し寒かったけれど、日が傾いて湖が深い青色に変わっていくのを暫く眺めていた。一緒に来ていたブランドンは湖を見ながらスケッチを始めて、その絵が書き終わると僕たちはキャンプ場に戻った。
このキャンプでの失敗があるとしたら、きちんとした寝具を整えなかったことに尽きる。山から下ってきたとはいえ、キャンプ場の標高は1000mを超えている。夏だと言うのに夜は10℃もないくらいまで気温が下がる。そんなことも予想していない僕たちは陽気にビールを飲んで、マシュマロを焼き、涼しい風を感じながら焚き火のそばでたわいもない話をしていた。12時を回った頃、疲れが出てきた僕らはテントに入って眠りについた。異常に気付いたのは深夜3時を回った頃だった。圧倒的な寒さだった。テントの床、壁から侵入してくる冷気はズボンや袖、首元の隙間から容赦なく身体の熱を奪っていく。あまりの寒さにほぼ三人同時に音もなく眼を覚ました。気づけば三人共屈葬のような姿勢をとり、決して広いとは言えないテントの中で、更に小さく縮こまり震えながら日の出を待った。日が出るまでの3時間はまともに寝られず100回くらい眼を覚ました。バスタオルやらなんやらを身体に巻き付けたけれど、気休めにもならなかった。朝日が出たときには寒さで疲れ切っていたけれど、この時ほど朝日をありがたいと思ったことはないだろう。文字通り希望の光と言ってもいいだろう。そしてこの日の夜もまたこの寒さに耐えなければいけないと思うと気が重くなった。
眠い目をこすりながら、クレーターレイク周辺のトレイルへと向かう。昨日と同様に気持ちのいい夏の快晴で、うまく行けば更にいい眺望で湖が眺められるらしい。道のりはさほど険しくなく、横目に美しい湖を眺めながらのハイキングはとても気持ちが良かった。残念ながら、このトレイルの途中に冠雪した箇所があり通行止めとなっていて、頂上までは行くことができなかった。前日の疲れもあったので、この日は早めにキャンプ場に戻ってダラダラと自然を満喫することにし、足早に湖を後にした。キャンプの一番の良さは、こうして自然の中でただダラダラするという部分に本質があるような気がしてならない。数年前に朝霧JAMにいった時、ろくにライブも聞かず、ただキャンプ場で焚き火をしながらコーヒーを飲んでいる時間が一番楽しかった。自然の中で時間を浪費しながら感覚を溶け込ませていくのがとても心地がよい。そしてそれは何度キャンプに行っても同じように素晴らしい体験で、色褪せることも飽きるということもない。風を感じたり、焚き火の火をずーっと眺めたり、顔にその火の熱を感じたりしているうちに時間が過ぎていくのが楽しい。そういうことをしていると決まって頭の片隅にヘミングウェイの「2つの心臓の大きな川」という短編のことがいつも頭をよぎる。美しい自然の中で孤独にキャンプを楽しむ男の話なのだけれど、僕はヘミングウェイの小説の中では一番この話が好きだ。素朴で美しく荒々しい。たまに読み返す度に自然に対する憧れをいつも思い出させてくれる。この日の夜も前日と同じくらい寒くて、同じように凍えていた。同じ時間に眼を覚まし、同じ時間だけ寒さを耐え忍んだ。何年かしてこの日のことを思い返すことがあるとしたら、湖の青さよりもこの身体に刻まれた寒さの記憶のほうが強いのかもしれない。もしかしたら、ヘミングウェイの小説の主人公も夜にこうして震えていたのかもしれない。