ESSAYS IN IDLENESS

 

 

1/2 LAST DAY OF THE JOURNEY

今日で旅も終わりかと思うとなんだか感慨深い。
短かったような、長かったような。もう終わりと思う一方で、どこかで早く帰りたいと思う自分もいた。

今日の予定は何も決めていなくて、19時に空港に行くことだけが決まっている。
空気は冷たく、空の曇っていて今にも雨が振りそうだった。自分がいた間は晴れてくれて本当によかった。

最後のパッキングを済ませる。もう何も取り出す必要がないから、衣類もその他の道具も適当にバックパックに押し込んでいく。歪な形に膨れたカバンを背負って部屋を出る。3日も泊まったモーテルの部屋だけにほんのすこしだけ寂しい気持ちになる。

モーテルのフロントのインド人のおじさんに別れを告げる。

「部屋の中でタバコ吸ってないだろうな!」
「吸ってないよ、信じてくれよ!」(何度もこのやり取りをしていて冗談になっている)
「ハッピーニューイヤー、グッバイ」

行き先も決めずに地下鉄に乗ると、いつの間にかウエストオークランドについていた。
電車から見るウエストオークランドの風景は自分が理想としていたような郊外のイメージにピッタリで、どうして昨日までの間にここに来なかったのだろうと後悔した。大きな貯水タンクに大きく書かれたグラフィティや、誰も歩いていない住宅街を歩きながら見てみたかった。サンフランシスコはまた来る機会があるだろうから、そのときには必ず行こうと思う。その後、港に戻りコーヒーを飲んだり、ゆったりと海を見ながらご飯を食べたり、アシカの日光浴や縄張り争いを眺めていた。

昼過ぎに長い坂道を登って高台にいき、サンフランシスコの街をアイスを食べながら見下ろす。
旅の最後になって、ああ、やっぱりこうしたかったとか、ここに行けばよかったという思いが浮かんでくる。
例えば、もっとスモールタウンや自然を見たかっただとか、車が必要だったとか、旅先で友達を作りたかったとか。
旅を始める前にしていた懸念は今でも引きずっていて、むしろ後悔していることは増えていた。
そうしている間に、目の前を観光客のたくさん乗った路面電車が通り過ぎる。(まるでインドの電車か?)
自分もああいう風に楽しめたら、、、とは思わないけれど、単純に何かを楽しむことを忘れていたような気もしないでもない。

空港まで向かう地下鉄に乗り、搭乗のためのチェックインを済ませる。
どうしてLCCの搭乗ゲートはホスピタリティがなく、鬱屈とした雰囲気がただようのだろう?
座席についてるコンセントも見せかけだけで、さっぱり充電ができない。
いざ乗り込むと一番最後尾の窓側の席。窓から見える景色は真っ暗で、たまに街の明かりがチラホラと見えた。
座席に深く腰掛けて目を閉じる。そして次に目を開けたときには既に着陸直前だった。
サンフランシスコからポートランドまでは約2時間だけど、どうやら全て寝てしまったらしい。

ポートランド空港を出て、自宅までの電車を待つ。死ぬほど寒くて一刻も早く家に帰りたかった。
家につくと日本の友達からすごく気の利いた年賀状と手紙が届いていた。
疲れも吹き飛ぶくらい嬉しかったけれど、そういえば僕の手紙は?と自分のことを思い出した。

ここ数日、旅行中に書いた手記を元にこうして日記を書き直しているけれど、自分が既に旅のいくつかのパートを忘れ始めていることに気づく。書かれていないことや、写真に残っていない部分の中にも自分が感動したことや印象的だったことはいくつもあった。
文字に書き起こすと同時に自分の中から記憶が抜けていく、つまり書きながら忘れていることにも気づく。
手記を見ながら思い出すこともあるけれど、もう決して思い出せない部分もあるのかと思うと怖くなる。例えば話した人たちの顔や、何をどこで食べたとか、モーテルのベッドや壁の模様だとかそういう些細なことだ。
正直なところフェニックスで何をしたかももう正確に思い出す自信はなく、自分の書いた記事を見直して「あ、そうそうこんなことあったな」と客観的に思い始めている自分がいる。
将来的に「誰だこの素晴らしい記事書いたのは!」と自分で思えたらいい。。
理想は記憶をなくしたラヴェルが自分の曲を聞いて「この曲を書いたのは誰?」と聞いたように思えることだけれど、どうやらその望みは薄そうだ。

hiroshi ujiieday, journey