ESSAYS IN IDLENESS

 

 

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自分の子供が産まれずして死を迎えるというのはどういう気持ちなのだろうか。ここ2日間くらいでかなり考え込んでしまったし、そういう境遇を迎えた知人についてかけるべき言葉が何も見当たらない。お腹の子供が健康に育っていると思って検診に行って、心臓が動いていないと言われた時の人の気持ちとは。自分の想像を絶する悲しみがそこにはあり、それは自分ではまったく共感に至ることさえできない。絶望が深すぎて底が見えないということしかわからず、その穴がどれくらい深いのかいくら考えてもわからない。この苦しみをいかに優れた人間が技法を凝らし描写したところでそれが正確であるとは思えないだろう。送られてきた赤ちゃんの写真は本当に生きているように見えた。可愛らしく、今にも目をあけて産声をあげそうな姿だった。この世界を見る前にその生を終えた子供の名前は伊織ちゃんという。

SNSを見れば、自分の子供の写真を幸せそうにアップしている人もいれば、子育てに協力をしない夫の愚痴を綴る人もいるし、子育てがいかに大変であるかという苦難を吐露し続けている人もいる。そういう苦しみもあるだろう、しかしそういう未来を迎えることができなかった人も世の中には存在する。自分の身に不幸が怒らない限り、想像力を発揮させることができないのが人間という生き物の性質であるように思う。その光景をどのような気持ちで眺めることになるのだろう?もちろん、誰がどのようなことを言おうが勝手だし、知りもしない他人を慮る必要もない。それは理解しているが、仮に不幸な境遇で子育てをしている人たちでさえ、羨ましく思えることだろう。

世の中のニュースを眺めていると反吐がでるようなことばかりに感じられる。養護施設の連続殺傷事件しかり、なぜ人が大切に産み育てた子供を殺めて良いということになるのだろうか。なぜ、自殺するまで人の子供を精神的に追い込んだりするのだろうか。そしてなぜそれらに対して罪の意識も感じないのだろう?頭のおかしい人ばかりで、正直嫌になってしまう。

—追記

2/22の午前に火葬が終わった。戸田葬祭場という川の側にある立派な斎場だった。赤ちゃんの入った棺は小さく、棺の蓋には小さなステッカーが貼られていてとてもかわいかった。天国でも遊べるように、と小さな玩具を少しだけ入れて、奥さんから手紙の手紙を添えて棺はそっと閉じられた。赤ちゃんの顔は桃のように小さくてすべすべしていて可愛かった。棺を抱っこながら「起きてもいいんだよ〜」と声をかけていたとき、そこにいたすべての親族全員の涙が止まらなかった。火葬場に向かって、少し大きめのぬいぐるみを添えて最後のお見送りをした。それまで気丈に振る舞っていた奥さんは、赤ちゃんがあの暗い焼却炉に入った瞬間にしばらく固まり、そして崩れ落ちて泣いた。これまでお腹の中で大切に育てた血を分けた娘が焼かれるとしたら。それを見ていた僕のお腹のあたりが急激にうずくように痛みだしたとき、ほんの0.00001%くらいでしかないと思うけれど、自分の子供を失うということがどういうことか「わかった」 気がした。

古い故事には「断腸の思い」という言葉がある。これのもととなった逸話は子猿を捕まえた船を追いかけた母猿が疲れ果てて絶命したときに、内臓がボロボロに断ち切れていたということから来ている。それまでは大袈裟なたとえ話としてどこか捉えていたところがあったけれど、それは本当にそうなんだろうと今では思う。子供が命を失った亡骸になったとしても、燃えて灰や骨になっても、それは間違いなく自分の子供なのだと、小さくて軽い骨壷を大事に抱えて撫でる奥さんを見ながら思った。

式が終わり、休憩室で親族と過ごしていたときに病院で取った赤ちゃんの足型や、兄と奥さんと赤ちゃんと3人で撮った写真が手荷物から出された。写真ではまるでこれからその赤ちゃんの人生が続いていくかのように、生きているかのように見えたし、二人の顔には悲しさが滲んでおらず清らかな表情だった。その写真を見ていると涙が止まらなかった。

「僕にとっては」、と前置きをしておくが、子供を失う悲しみというのはおそらく人生において最も深く悲しいものになるのだろうと、今回のことをきっかけに実感した。兄夫婦の子供が亡くなったことでさえ人生で最も悲しかったというのに、仮に自分に子供がいてその生命が潰えたとしたら自分はどうなってしまうのだろうか。子供が産まれるというのはそれ自体が奇跡的なことなのだろうと思う。医療技術がいくら発達して無事に産まれる可能性が上がったとしてもそれは変わらない。いつぞや、「女性は産む機械」などと言って盛大にバッシングをされた議員がいたけれど、そういう人間はより厳しく罰せられるべきだろう。何をどう考えても全く許される発言ではない。

最近学んだこととして、この世の中に存在する概念は、必ず対となる逆の概念と合わせて存在する。幸せという概念が生まれるとき、それは不幸せという概念も同時に生まれることを意味している。逆に不幸せという概念がなければ幸せという概念は産まれない。だとすると、今回の悲しみの深さと同じかそれ以上の幸せが子供が産まれることで実感できるのかもしれない。兄夫婦にはまた元気になったときにそれと同じだけの幸せが訪れてほしいと心から願う。

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