SEE EVERYTHING ONCE -DAY15-
朝起きてマサチューセッツ州のボストンに行こうと思ったけれど、寝坊してしまったので予定を変更し、ロードアイランドにいきがてら立ち寄ろうと思っていたウォールデン池にいくことにした。ウォールデン池はその名の通り『ウォールデン 森の生活』においてソローが実際に過ごした湖とその辺りにある公園のことだ。実際に彼が二年間を過ごした小屋が畔にあり、今ではレプリカとなっているらしいのだけれど、大きさも内装も当時を忠実に再現したものがあるらしい。僕がこの池のことを知ったのは『アメリカ61の風景』で、長田さんがこの場所を実際に訪れていたからなのだけれど、彼の瑞々しく思慮深い考察が何よりのきっかけだった。その彼のエッセイを読んでいると、僕でも個々に来れば何か感じるものがあるかもしれないと思わせるだけの魅力がありそうに思えた。宿泊していたドライブインから15分ほど運転したところに、その池はあった。高速道路を降りてすぐのところにあるし、駐車場も整備され、更にはお土産やさんまである。入場料もしっかり15ドルとられ(マサチューセッツ州民は5ドルくらいだった気がする)、なんだかなぁという気分になったけれど、受付のおじさんがすごく丁寧に池について説明してくれたから、その嫌な気持ちも吹き飛んでしまう。おそらく僕のようにソローの跡を追って来る人も少なくないのだろう、彼の歩いた道のりや彼の住んでいた家の場所を事細かく(僕の後ろに渋滞が出来ているにもかかわらず)教えてくれた。
車を駐車場に停めて、池の方に進んでいく。するとソローの銅像と、彼の過ごした小屋のレプリカが置いてある。銅像が実寸なのかどうかはわからないが彼の背丈は非常に低かった。別に仮に低かったとしてもなんの違和感もない。彼の過ごした小屋の質素さには改めて感じ入ったところがあった。6畳程度の狭い小屋には机とべット、薪置き場に暖炉、そして椅子が3脚。それ以外のものは何もなかった。窓はベッドと机の脇に二面。彼の必要なものを最低限置いただけの、本当に質素な小屋だった。彼は44歳で結核でなくなっているのだけれど、この生活が彼の身体を蝕んだことは容易に想像できる。いわゆる「ロハス」という言葉、そして概念を提唱したのは彼なのだけれど、その彼がこうして短い生涯を送ることになってしまったことに関しては考える必要があるとも思えた。
彼の過ごした池は本当に美しい、天国のような場所だった。美しい森に囲まれた氷河からできた湖は透き通ったブルーが美しく、水底まで透けて見えるほど。ゴミも一つも落ちておらず、泳いでいる魚の動きも全て見通せるほどだった。水は冷たく過ぎず、足をひたすと気持ちがいい。ビーチには家族連れの人たち、日光浴をする人、泳ぐ人、釣りをする人、ボートやカヌーを楽しむ人、そして読書をする人などでまばらに賑わっていた。たまに子供の笑い声や鳴き声が聞こえるけれど、風の音と虫の声、木々のさざめきしか聞こえない、本当に美しい場所だった。天気も相まって、本当にこの瞬間この場所にいてよかったと思う。彼の愛したという1.7マイルの湖の畔を歩くと、涼しい風が身体に心地よい。彼の愛した湖は今では人々に愛される憩いの場として生まれ変わっていて、彼の提唱した概念というものからは離れてしまっているかもしれないけれど、それでも十分に尊く美しい瞬間だった。特に、本を読んでいる人を見かけると、この池の意味というのがわかってくるような気がした。風や音は秋晴れの空に抜けていき、本当に静かだった。
その後、コンコードというアメリカ東部の中でも歴史が深い場所にいく。そこはソローがかつて暮らしていた街だった。ウォールデンストリートや、ソローアベニューといった通りからもこの街が彼を大切にしていることがわかる。この街の家並みは美しく、マサチューセッツ州の田舎の魅力を存分に感じることができた。
泊まったモーテルはハーバードという小さな街の小さなモーテルで裏手には美しい池がある。ここに暮らしている人たちがいることに驚いた。ここまで気づかなかったけれど、マサチューセッツ州の裕福ではない人たちはこういうところに住んでいるんだなということに気がついた。今まで豪華な家しか東海岸では見なかったけれど、こういう暮らしもあるのだろうということがわかった。なぜかモーテルにはプールが付いていたけれど、誰も使っていなくて、枯れ葉やゴミが浮いていた。僕が裏手を散歩しているとモーテルに住んでいると思われる家族が帰ってきて、すぐに裏庭で三輪車乗ったりボール遊びをしていた。こういう光景は地元の人からしてみたら惨めで悲哀に満ちているように映るのだろうか?少なくとも僕にとっては慎ましく、美しい光景に見えたのだけれど。