SEE EVERYTHING ONCE -DAY17-
ドライブインの駐車場で目が覚める。七時半に目覚めてしまったので、その足でジェームズタウンの州立公園へと向かう。ここに来たのはムーンライズ・キングダムで使われたあの入江があるらしいということを知っていたからだった。公園に入ると入江はすぐにみつかった。なんということはない、静かで寂しい雰囲気の公園だった。ムーンライズ・キングダムというと、誰しもが入江でレコードを掛けながらあどけない様子で踊りを踊るシーンを思い浮かべるだろう。ただ、僕がこの入江に到着した時に、その光景も、情景も一切感じることができなかった。僕がこの場所に足を停めたのはウェス・アンダーソンがこの場所を選んだからであって、そのことがなければ確実に訪れることも何かを見出すこともなかっただろうと思う。僕がここに来る理由はわかるけれど、彼がこの場所を選ぶ理由が全くわからない。彼がこの場所を選んだことはいくら想像しても答えが出ないブラックボックスの中にあるように思えた。映画に出てくる風景や街は、得てしてなぜその場所が選ばれたのかがわからない。そこに何かを見出すことが彼らのような人間のできることであって、その領域にはいつまでたっても及ぶことが無いだろうと思う。だって、どう見たってこれは普通の、何の変哲もない入江すぎたから。朝が早かったせいか誰もいなくて、曇り空によってよりその寂しさは強調されていたように見える。入江には赤いボートを持ち込んだおじいさんが今まさに沖に向かって漕ぎ出そうとしているところで、手助けをしようとしたけれど大丈夫だといって漕ぎ出していった。水平線の向こうには霧の中に大きくて豪華な客船が何隻も見えた。この公園の雰囲気の異様さはすぐにわかった。公園の影の方にはグラフィティだらけになった防空壕のような場所があり、スプレー缶や空き瓶、タバコ、いろいろなものが無造作に放置されていた。そのエリアはなぜか危なさよりも退廃的な美しさに満ちていたように見え、誰もいなことを確認してから静かに近づいた。そうしているうちに日が高くなってくる。東海岸に肉風と、暖かい日差しで朝靄があたりを包む。靄の中が光が満ちてきて、水面はきらめき、遠くに見える客船は白く霞んで見えた。静かで、あまりにも綺麗な朝だった。
ビル・マーレイが映画の中で暮らしていた元灯台の家に行ったり、その途中にあった廃屋や公園を撮ったりしながら時間を過ごしていた。その間に道を訪ねたりするのに、車の窓越しにたくさんの地元の人達に話かけたのだけれど、このロードアイランドの人たちは本当に気さくでやさしい。急に話しかけてきた僕に対して本当に親切に対応してくれる人しかいなかった。何も目立つものはないこの州が、このおかげでとても好きになっている。スモールタウンを繋ぐ道も質素な美しさに満ちている。本当に綺麗な場所や、時間というのはどこにも書かれていないし紹介もされていないのかもしれない。もし自分がこんな綺麗な場所に暮らしていたとしたら、絶対に観光客には教えないだろうと思う。
あたりはどんどんと霧がこくなってくる。その足でチャールズタウンのビーチにいくと、人は全然いなくて、釣りをする人やくつろぐ人で閑散としていたが、その様がなんともいえずゆったりとしていて美しい。真っ白なビーチに光る波打ち際、そこではしゃぐ子どもたちが光に照らされて綺麗だった。これほど美しい瞬間はみたことがないかもしれない。どんどんと辺りの霧は濃くなってきて、海沿いの原生林のあたりはさながら幻想的な雰囲気を醸し出していた。このあたりは砂浜と湾、そして森林が入り組んだような地形になっていて、こんな雰囲気の場所はこれまでみたことがなかった。砂浜に続く道の両脇には背の高いカラフルな家が立ち並んでいて、こんなところで暮らせたらあとは何も要らないだろうなと思った。湾の中をざぶざぶと歩いていたら、いつの間にか誰かの家の庭に侵入してしまっていたらしく、声をかけられる。ダメ元で「フォトグラファーなんですけれど、このあたたりの写真を撮らせてもらえませんか?」と尋ねたら即OKが出た。その民家の人の話だと、このあたりには鹿なども来るらしい。もしその光景がみられたら言葉にできないくらい素敵に違いない。
最後に、夕暮れ時のビーチにいって黄昏れながら海を見た。こんなに美しいものを見続けた日は人生でもそうはないだろう。広い駐車場には誰もいなくて、ただ僕だけがいた。寂れた移動遊園地が夕焼けに染まって、だんだんと辺りは暗くなっていった。この日は潮風は強く、そして海の側にいすぎたこともあって体中がベタベタになってしまった。トラックストップでシャワーを借りて、熱いお湯で身体を流すと本当に気持ちが良かった。トラックストップのテレビの前には荒くれ者のトラックドライバーたちがみんなでビールを飲みながらNFLの試合を見ながら盛り上がっていた。荒くれたち同士は見知っているのか、この場で出会ったのかわからないけれど、みんなが人種や年齢を気にしないで賑やかに盛り上がっていて、それを遠くから眺めているのがとても楽しかった。よく出てくるスラングや、ヘマをしたプレイヤーの罵り、馬鹿でかい歓声。間違いなくそれはアメリカの光景の一つでしかなかった。
--------------------------------
2018年2月7日午前1時7分、祖父が逝去した。入院してから10日、91年の長い生涯を終えた。
1月の28日に入院してから、時が経つのは早かった。一日に一度か二度、30年以上もかかりつけになっている町医者のもとへと車で通った。日に日に喋れなくなっていってしまうし、声も聞こえなく、目も見えなくなってきているのがわかった。最初はこちらの呼びかけに反応していたけれど、反応がなくなってからは声をかけるのをやめて、黙って隣で暫く過ごすような時間が増えた。無機質に上下する心拍数や血圧計の数値を見ているだけであっという間に時間は過ぎていった。
看護婦さんが大声で呼びかける。「氏家さん!お髭剃りましょうねー!!」その呼びかけにただ「はい」と答える祖父。顔にタオルを当てられて、安っぽいカミソリで祖父の顔を剃っていく。家では毎日、毎朝髭を剃っていた祖父は絶対に安っぽい、ビジネスホテルのアメニティのカミソリ以外は使わなかった。祖父は自分のためにお金を一切使わない人間だった。母が買い与えた服は着ずに何十年も前から来ている、安い、スーパーの衣料品売り場で買った服しか着なかった。お金が無いわけではないけれど、いつも安い車に乗り、安い時計を毎日付け、外食もせず、家具もラジオもテレビも滅多に買い換えることはなかった。祖父が大きく金を使ったところといえば、祖母が眠る仏壇と、葬式費用、そしてお寺に納めるお布施。もちろん僕ら家族への支援という意味でのお金もあるけれど、決して自分のためにお金をとにかく使わない人間だった。洗面所にはいつも安っぽいカミソリが置いてあった。病院のベッドで髭を剃られている祖父を見ていると、ふとそんなことを思い出した。
水も飲めなくなったので、点滴による栄養補給に切り替わった。痛みが強くなってきたのでモルヒネを投与しているので意識の混濁も起きてきている。もう既にペンを持つことも叶わなくなり、祖父と意思を疎通させる術は失われてしまったように思えた。大勢を入れ替えるために身体や頭を支える度に祖父の身体が細く、軽くなっていくのがわかる。壊れかけの土人形を持ち上げているかのように、慎重に身体を支え、もとの位置へと戻す。少し身体を動かしたり、回診の医者が聴診器を身体にそっと当てるだけで祖父の表情は曇った。口には出さないが相当の痛みがあるのだろう。もはやこの痛みは想像を絶するほどなのだろうけれど、祖父は何一つ苦しいだとか痛いだとか、そういうことは言わなかった。
2月6日の夕方に父と一緒に病院へ行き、病室へと入ると祖父は寝ているところだった。もはや痛みで寝れない日も多かったから、暫くその表情を眺めて静かに病室をあとにした。なんだかんだ、あともう少しは身体が持つのかもしれないと思った。深夜12時を回った頃、父がノックもせずに慌てた様子で部屋に入ってきた。「病院から電話が来たから、今すぐに準備しろ。」僕は来ているものそのまま、車の鍵を掴んでエンジンを掛けに行った。病院へと着くと当直の看護師さんが玄関の施錠を解除し、そのまま祖父の病室へと急いで向かう。祖父の病室へと入ると二人の看護師さんが祖父に向かって大声で呼びかけていた。祖父は大きく口を開きうめき声が漏れている。そして顎を上下に動かしながら苦しそうに呼吸をしていた。夕方までの様子とは大きく違っていた。その光景は見ている者に対して強く死を意識させるものだった。
「痛みを緩和するために、モルヒネを投与しましょうか?その分血圧は下がってしまいますが。」
「はい、苦しまないのが一番なので、お願いします」
祖父の心電図や心拍数、血圧はみるみるうちに弱っていった。母の呼びかけに応じて鼓動が強くなったり、弱くなったりした。苦しそうな呼吸は徐々に弱く、ゆっくりになっていった。一呼吸の感覚が1秒、1.5秒、、、と長くなっていく。この感覚を永遠と呼ぶのだろうと直感的に思った。この呼吸で最後になるかもしれない、次の呼吸はいつ始まるのか。この短い時間が本当に何十秒に何分にも感じられて、胃液が逆流するような恐怖感と焦燥感に包まれた。そして心臓が停まる、停まったと思ったらまた少し弱く鼓動が始まる。呼吸が停まる。呼吸が停まっているが、心臓はまだ少しだけ動いている。「おじいちゃん!」と呼びかける母に呼応しているのか、その呼びかけがあると祖父の心臓は最後の力を振り絞っているように弱々しく動いた。僕が母に呼びかけを辞めさせると祖父の身体につながれた計測器はすべての数値で0を指し示した。両親と僕と二人の看護婦の5人で祖父を看取った。2018年2月7日午前1時7分、祖母の月命日からちょうど1時間が過ぎた頃だった。
その後、僕たち家族は祖父の遺体の側に付き添い朝を迎えた。祖父の遺体を葬儀屋に引き取ってもらってからは怒濤のように毎日が過ぎた。葬儀の準備、例えば買い出し、各方面への連絡、客人のもてなし、掃除に始まり、寺に行き住職と話をしたり、葬儀屋と打ち合わせをしたり。そして家の電話はひっきりなしにかかってくる。そして祖父の祭壇を作ったり御膳を作るという決まり事も守らねばならなかった。話のわからない親戚のおじいさんの話し相手を2時間も3時間もしなければ行けないときもあるし、一日に5回も6回も急須でお茶をだすこともあった。不幸なことに、この時期は葬儀が尋常じゃないくらい重なっているらしく、家に読経に来る住職の時間も読めない。そのため朝は早く、夜は遅い。個人を偲ぶ暇などろくに無いほど忙しかった。
納棺式の日は朝早くに起きて、仏間を綺麗に整えた。納棺師の方が着て、血縁の近い親族が祖父の遺体を囲むように座った。住職がお経を読んだあと、白装束を親族一同で着せていく。納棺師はやせ細った祖父の身体を考慮し、病院で着せられた浴衣の上から白装束を着せた。祖父の身体を見ていると、いつか家族で見に行った即身仏の身体を思い出した。手甲、すね当て、足袋、草鞋と順に親族一同で協力しながら着せて行く。三途の川を渡るための船賃として六文銭を渡すのだけれど、土踏まずのところに差し込むように入れるのだそうだ。それは道中誰かに盗まれたり、鬼に取られないように草鞋と足の間に隠すようになっているらしい。僕は仏や神の類を信じたことはないのだけれど、これで祖父が天国に行けるのだとしたら、この合理性を欠いた風習も喜んで受け容れられた。その後、最後に化粧を施す。黄疸で黄色くなった祖父の顔に、白い化粧をしていくと、少しだけ血色が良くなったように見えて生前の祖父の顔色にわずかながら近づいたように思えた。
通夜の会場に遺体を運び、大きな祭壇の前に安置する。曹洞宗の寺の生まれである祖父の葬儀には5人もの僧侶が駆けつけ、お経を読んでくれた。御焼香が終わり、通夜が終わる。次の日、葬式が始まるまでの間、僕達家族は祖父とこの会場で一晩を過ごすらしい。この風習は昔から受け継がれているもので、そもそも遺体が野犬や盗賊に狙われないように蝋燭の火を絶やさず、朝まで遺体を守りきるために行われているそうだ。だから葬儀会場に寝室や風呂が併設されている理由が今になってよくわかった。兄と僕は翌日の葬儀で弔事とお別れの言葉を言わなければ行けなかったから、広い葬儀会場の片隅で夜中の3時くらいまで一緒に文面を考えていた。僕と兄の文面はよく似ていた。おそらく誰が考えても同じような言葉が出てきたと思う。それくらい祖父は一貫した人間だったし、裏表の無い人間だったということだと思った。厳しさ、優しさ、誠実さ、犠牲心。これらの言葉は誰が祖父を見ても感じることだったろうと思う。「俺は年下でも、生徒でも、部下でも人を呼び捨てにしたことは一度もない」と、入院する前の祖父が僕に話した事があった。確かに祖父は僕のことですら呼び捨てにしたことは生涯一度もなかった。僕は祖父が嘘を言ったことや、やると言ったことを投げ出したことや、言い訳をすることや、何かを誇張して話したところを一度たりともないということにこの時に気がついた。
葬儀は翌日、しめやかに行われた。僧侶の読経に合わせて葬儀に参列した方々も一斉にお経を読むことになる。はっきり言って何を言っているかも、自分が何を読んでいるかもよくわかっていないのだけれど、それが不思議と心地が良いということに気付いてくる。「理由がわからないけど、受け継がれているものこそが美しい」というのは、僕が柳宗悦の本でまさに読んでいたことなのだけれど、こうして形式だけが残っているが形骸化していないもの、つまり無垢なるものの力というのが、この葬式という文化の一つの側面なのかもしれないとふと思った。やはりそこには神聖さと尊さがあり、得も言われぬ抗いがたい力がある。僧侶の説法には不思議な力がある。信心深くない自分が、なんの確証もない話を頷いて聞いてしまっているのだから。一通りの読経が終わったあと、祖父への弔事を読み上げることになる。祖父がなくなってからは悲しみを感じる暇などなく、そしてどちらかと言えば悲しみというより、もう祖父が苦しまなくて済むという安堵感のほうが大きかった。だけれども、手紙を読み上げる最中というのは手や声が震え、まるで自分が自分でないかのように何も抑えることができなかった。いつもは飄々としている兄が、少なくとも20年以上は涙を流したところを見たことがない兄が、僕の隣で涙を流していたことには心底驚いた。手紙を読み上げる最中に涙が出るのはこれが人生で二回目だった。一度目はサークルで先輩が引退するときに手紙を読んだときだった。全く意図せず涙が流れてきたものだから自分自身が一番驚いた。たぶん、手紙を書く、そして読むというのはそういう力があるということなのだろうと思う。
火葬場にいき、金庫のような分厚い扉を開け、その中に祖父の入った棺を入れる。これが祖父の顔を見る最後の機会になる。隣の火葬場でも誰かが火葬されていて、扉の前に据えられた写真を見るに、祖父よりもだいぶ若い人だったように思えた。誰がいつ死ぬかなんてわからないし、若くして死ぬ人も、年老いてから死ぬ人もいる。事故で遺体が大きく傷つけられてその顔を見ることも叶わない人もいれば、そもそも震災のときのように遺体すら見つからない人だっている。そう考えると、こうして祖父を見送れるということはとても幸せなことなのかもしれないと思った。遺体が火葬されるまでの時間は親戚と話しながら時間を潰すことになる。11人兄弟の中に生まれた祖父なので、祖父の兄弟の息子やらなんやら、そして祖母の兄弟とその親族も含め、会ったこともない遠縁の親戚がやたらと多かった。もし祖父があと20年若くして亡くなっていたら、かつての職場の部下や上司や生徒などが駆けつけてとんでもない規模になっていただろうと思う。だから、いまこうして田舎の小さな火葬場でのんびりとしていられることはある意味良かったのかもしれないと思った。祖父が火葬場から出されると、真っ白い骨と灰だけになっていた。その骨は太く、大きかった。入院する前の日に転んで打った頭は内出血を起こしていたらしく、その部分だけが血の赤で染まっていた。祖父はそこが痛いなんて一言も言わなかった。祖父の骨を拾って骨壷にいれるが、大きな骨壷にはまるで収まらなかった。
祖父の生まれた寺に行き法要と納骨式をした。外は寒く、喪服を軽々と突き抜ける冷たい風は耐え難かった。墓石をどかすと、13年前に死んだ祖母の骨壷がきちんと収まっているのが見えた。祖父の遺骨をその隣に沿え、墓石をもとに戻す。これで祖父は孤独感を感じなくて済むと思うと心が本当に安らいだ。親族一同を集め、寺を借りての会食を済ませる。遠縁の方々やお坊さんたちにお酒をついで、祖父との思い出を話したりしていると自分のご飯を食べる時間はあまり残っていなかった。その中で、口々に聞かれる「お爺さんは君が言っていたとおり、立派な人だったよ」と何度も、いろいろな人から聞かされた。その度に自分は誇らしくて、祖父のような誠実な人間になりたいと思った。午前8時くらいから始まった葬式が終わったのは午後5時くらいで、ようやくこの忙しい日々から開放されたと思った。両親も兄も疲れ切っていて、みんな揃ってすぐに家に戻って喪服を脱いだ。夜になると外の寒さは一層厳しさを増していた。ふと顔をあげると雪がぼたぼたと空から降ってきていて、あっという間に視界を白く染めた。祖父が大事に手入れしていた家庭菜園のプランターや庭の樹木、灯籠にうず高く積もっていった 。この雪が祖父の灰のように思えて、空を見上げているのが苦痛ではなかった。日本海側の各地で観測史上最大の積雪らしいといろいろなニュースでやっていて、明日の墓参りが億劫になる。「じいちゃんも、最後にやってくれるねぇ」なんて思いながら少しうれしくなってしまったのだけれど、祖父が生きている間には何もしてあげられなかったから、どんなに雪が積もったとしてもその雪をどけて線香を供えに行くつもりだった。