ESSAYS IN IDLENESS

 

 

FREAKS AND GEEKS

全然関係ないけど、ヒップスター感満載のCoava Coffee

全然関係ないけど、ヒップスター感満載のCoava Coffee

浅倉のススメでフリークス学園、「Freaks and Geeks」をNetflixで片っ端から見てしまった。端的に言うとこれほど最高だと思ったドラマはかつてない。始まって十秒、グラウンドで練習するフットボーラーと、競技場脇のスタンドで下らない会話をしながらいちゃつくチアリーダーとジョック。そのスタンドの下ではアウトサイダー達が下らない会話を繰り広げる。そしてジョーン・ジェットのオープニング。この一連のシークエンスだけでこのドラマの目指しているところと、自分の見たかったものが一致していることが理解できる。このドラマが2000年くらいに出ていたということは、僕は日本で金八先生を見ていたはず頃かもしれない。もし、その時にこのドラマに出会っていたとしたらきっと僕の人生は変わっていただろう。落ちこぼれと、ナードと、優等生が織りなす典型的なアメリカの高校生活。それはチアリーダーやジョックといったスクールカースト上位層との確執であったり、大麻やドラッグ、政治に家庭問題であったりする。様々なアメリカの問題を描きながらも、圧倒的な優しさと知性によって見ているこちら側が救われている気持ちになってしまう。画面の中で演じる等身大の彼らはまるで僕達の写し鏡の様に見える。そして彼らの体験したことが良いとも悪いとも断言されることなく、純粋にある種自分の経験として思えてくる不思議さがある。

物語のメインの3人のギークたちが野球をやらされる話がある。いつもチーム決めのときに誰にも指名してもらえず、彼らは野球をすることすらできずフェンス際からただ仲間がただ楽しんでいるのを眺めていることしかできない。それか玉の混んでこない外野の守備としてただ立っているだけで終わってしまう。そしてそれは彼らが学校に入学した頃からずっと続いていた。そして体育の教師は決まってろくでなしでIQの低そうな性悪なので、そういった状況を見て見ぬふりをするのが常である。そんな状況に耐えかねた彼らは教師に対して取引を仕掛け、自分たちの仲間を集めた野球チームを作る提案をする。(なんて勇気のある行動なのだろうか)

「じゃあ、まずフィールド上で頑張ってくれる力持ちのパワーヒッターが必要だ。ウィアー、君だ!」
「次はベース上を速く駆け抜けられる男が必要だ、カモン、シュワイバー!」
「やったー、ハハハ!!」

このウィアーも、シュワイバーも当然ながら完全なナードだ。しかしこの時の彼らの純粋な喜びようといったら!しかし現実は甘くない。彼らはピッチャーマウンドから、キャッチャーミットまで届くかどうかとといった山なりの玉を放る。当然の事ながらフォアボールが続いてしまう。

「こんなことならあのジョックたちにピッチャーをやらせればよかったじゃないか」
「何をいってるんだ?これは”俺達の”ゲームなんだぜ?俺達ならできる。俺はジョック達に”やっぱり俺らがあいつらを11年間も外野をやらせてたことは正しかった"だなんて思ってほしくない。さぁ行こう!」

そして、ロッキーのテーマが流れ始める。そしてまるでウェス・アンダーソンの映画のようなスローモーションがここぞとばかりに始まる。いつも自分たちを外野に追いやったジョックがバッターボックスに立つ。ウィアーが玉を投げる。そして彼が打つ。玉は外野に向かって勢い良く飛んで行く。キャッチャーのシュワイバーがキャッチャーマスクを外し玉の行く末を見守りながら渋い表情を浮かべる。もう一人の仲間であるセンターを守るナードのビルがたどたどしい足取りでボールを追いかける。ボールを追いかけるビルとその玉の行く末を全ての生徒と教師が見守る。そして、俯瞰からのカメラに切り替わり、黄緑色の芝の生えた明るいフィールドにソフトボールが入り込んでくる。そしてその玉の下にはグラブを構えたビルが必死に走り込んでくる。玉はそのグラブにすっぽりと収まり、それと同時に彼は明るい緑色をしたフィールドに勢い余って倒れ込んでいく。それを確認した彼の仲間2人はそれが1回表の1アウトであることも忘れて彼のもとに全力で駆け込んでいく。まるで試合終了の1球を掴んだかのように。

このシーンを眺めながら僕は普通に泣いていた。美しいとも、嬉しいとも違う、なんとも形容し難い感動の気持ちが胸に溢れて気づけば涙が出ていたのだった。弱さと強さが同居した瞬間のことを優しさとでも呼べば良いのだろうか?その瞬間はとにかく幸せというものに彼らは包まれていたように思う。それがたとえ一瞬であったとしても。

もちろん、この話の他にもこのドラマの素晴らしい点を上げれば枚挙に暇がない。彼がところどころに織り込んでくる彼の趣味嗜好。ピンク・フロイドやグレイトフル・デッド、そういった会話の節々に編み込まれている彼の好きなものになんといやらしさのないことだろうか。別にジャド・アパトー自身は、何をどうしたいだとか、人の価値観を変えてやろうとかそういう余計な価値観を持っていない。自分の信じているものや好きなものを彼自身のやり方で提示しているだけとも言える。価値観の垂れ流しといってもいい。そして彼の眼を通して価値観を享受することで、彼と自分自身の繋がりを感じることができる。詰まることろそれが最高のユーモアであり、人と人とが理解し合えるとしたらユーモアを通してのみ実現できるものなのではないかと思った。

 

hiroshi ujiieday